5月31日号「親父ギャグという言葉」のつつづきをお送りします。冗談で言うてるのに、大げさやないかと、のお声もあるかも知れませんが、コトは、言う人の人権感覚の不十分さから発する言葉だと思いますので、今回は、ややお堅く、「差別と偏見」というテーマで、私の見解を申し述べサセテ頂きます。


        「親父ギャグという言葉」から
          ~差別と偏見~

★ 差別は、人を傷つける不当な行為です。「傷つける」と言っても、言われる人にとって都合の悪いイヤなことを言われれば、すべて差別かと言えば、そうでない場合もあります。例えば、友人に友情から忠告する場合もあろうし、債権を持っている人が債務者に義務の履行を請求するというような正当な根拠に基づいてイヤなことをする行為は、手段方法に妥当性がある場合、請求する行為自体は差別でなく、正当な行為です。
 差別は、「不当に人を傷つける行為」なのです。

・・・人は、他者よりよい目をしたい、優位に立ちたい、という欲求を、持ちがちです。この欲求自体は、その人の行動の原動力となる面があり、全面的には否定できません。。。ただ、他者よりよい目をする、優位に立つということの過程のなかで、 「本人の責任に属さない何らかの外的な条件」(例えば、人種や民族、家柄や出身地や学閥や親の七光り的なことなど)が加えられて、その競争の条件に格差が設けられる場合、まして、権力を有する者や圧倒的に経済的に優位に立つ者が、それを煽り、唆し、利用するようなことがあれば、それは典型的な差別です。

・・・また個人的に、好きとか嫌いとかの感情も、全面的には否定できません。しかし、気の合わない人を、集団の力を借りて排除したりするとイジメですし、権力や経済力を使って不当に扱うことは差別です。 

・・・また、悪い例えに、特定の国や地域や民族や人名や性や一定の年齢階層の人を引き合いに出してくることは差別です。「親父ギャグ」という言葉もこの類の言葉ですし、最近のお笑い芸によくありますが、年寄ることをからかったり嘲ったりすること、また女性を、ひと昔前によくあったのですが、「女のくせに」とか「女の腐ったような奴」という表現も女性への差別性いっぱいです。「男のくせに」は聞いたことがありますが、「男の腐ったような奴」とは聞いたことがありません。

・・・また、言葉自体に、人を侮蔑・差別するものがあります。例えば、イヤな言葉ですが、オジン・オバン・ババア・ジジイ等といったものです。容貌によって、人を侮蔑することも、差別です。オジン・オバンは前後の文脈から一概に言えないこともありますが、ジジイ・ババアは、響きがきつい。

★ 人間は、その人間的未熟さもあって、ともすれば他人を蹴落としてでもとか、他人より優位に立って、自分の立場を強めたい、と思うことがよくあります。しかし、人間的に成長するということは、自分の未熟さを克服していくことであり、この行為がどれほど人を傷つけることになるのかを、しっかりと弁えられる状態になっていくことではないでしょうか?

 言う人にとっては、一瞬の享楽の軽いことかも知れませんが、言われる人にとっては、長く心を苦しめられる重いことなのです。 
(すみません。私憤・義憤・公憤に駆られて、エラそうに講釈しちゃいました。長くなりますので、以下、後日に、つづけます)
  

      “親父ギャグ”という言葉


 偶然にできた、老若男女6人ほどの集まり。いろいろ世間話をしていると、話が「親父ギャグ」ということに及び、私face08は若い人face05の方を向いて言いました。

  “親父ギャグ”という言葉を、世間でも、テレビでも、よく使っているけれど、これ、どう思う?・・・と質問。若い人「そうやねぇ・・・」と考えてる最中に、私よりもち若そうな中年のおじさんface06が、「じじい、と言われるよりマシですやんか・・・」と大音声! 「そんな、問題ではない!」と、私kao12もお返しの大音声! 

  この一連の会話に集約された日本のひとつの現状・・・みなさんも、お考え下さればうれしいです。。。

 私は、紛れもなき“親父”であり、孫からは“爺ちゃん”と呼ばれています。そのことは、毛頭、否定する気もナイ。その私が、ぜひ、言いたきこと、訴えたきコトあり。ただ、思い長口舌になる可能性がありますので、近日中に、つづきを述べさせて頂きますので、今朝は、これにてお開き、ということでお願いします。
      
               (つづく)      ただ、下手な一句を。

   夏の空 しゃべり声する こだまする
                 ヤッホ~! ヤヤ、描写が大げさface02カナ?!  

 昨日に続いて、お送りします。暫時、ご辛抱を・・・。


   異質・異端は、貴重な教科書

 官も民も、組織として動いている。現実には、組織の多くが、自分たちにとって“異質”とか“異端”とか“都合の悪い外部”の意見を排除する傾向がつよい。だけど、“異質”“異端”“外部の意見”から学び、内側に入れてこそ、組織としての膨らみ・柔軟性・可能性が広がっていくのではないだろうか? 指摘に対して、議論して、共通の理解に到達した方が、組織にとっても、意見を言う人にとっても、納得できる未来が開けてくる。 

 「生活者」「市民・主権者」として共通の課題を持つ者が、共に社会を構成する組織が、話し合い、議論する・・・これこそ、民主主義であり、話し合い、議論することによって、国民(住民)も、行政組織(公務員組織)も、自分のものの見方の狭さに気づき、より合理的で、より多くの人が納得できる普遍的な考え方に到達できる。

 敵対ではなく話し合いを、敵視ではなく議論を・・・話し合いによる相互理解の道筋を経ない決めつけは、“偏見”になる。 橋元知事の発言は、一面では、心地よい。だけど、なにか釈然としないものも残る。ミイラ取りがミイラになったらアカンけど、民主主義を、とことん、追求して欲しい。古人いはく「もの言わぬは、腹ふくるる技なれば・・・」。確か、「徒然草」の吉田兼好だったでしょうか・・・。町の100人委員会に期待するところ、極めて大なるゆえんです。


【舞台裏】 いつもテンション高いねぇ、と言われますが、そうではござんせん。今年は、プロ野球のロッテが負け続けだし、人様に、ちょっとシカトされると、高齢の孤独・悲哀をことさら感じて寂しい。
 寂しいが故に、少し、気にかけて頂くと、すごく嬉しい。ブログへのご訪問者の数が増えて、嬉しい・テンションUP、という次第でございます。  

 このブログの5月18日号では、公務員に厳しいことを言いましたが、一方では・・・。。。。。
 エラそうに言うな、とお叱りを受けそうですが、少しでも社会の前進につながれば、という思いで、さらに生意気を申し上げます。本人は、極めてマジメに書いておりますので、単なる「世迷いごと」より、もう少し上のランクにお位置づけくださいますよう・・・



      徹底、話し合いのススメ
  
 5月18日号では、公務員に厳しいことを言ったが、一方では公務員も、一生活人であり、一市民であり、一労働者であり一主権者であり、その組織も私企業と同じ、生身の人間の集合体である、という側面を持っている。その意味では、民間企業とか、そこで働く人と変わらない。ただ、大雑把に言えば、民間企業は儲かる・損するというバロメータがあって、世間の経済景気動向に大きく左右され、大もうけ・倒産という浮き沈みがあり、組織も働く人々も、世間の風・影響をモロに受けるという面があるのに対し、官庁は、「親方日の丸」という言葉で揶揄されるような安定感・温室育ちの観がある。最近は、自治体の財政危機でそれも危ういものになってはきているが、それでも民間企業の人から見れば、ダルいものに感じられるようだ。その分、公務員組織には、厳しい眼差しが注がれることになって、私も、現役当時、住民全体からの注目を意識する場面もあって、その不自由さに愚痴をこぼしたこともあった。

 今、働いて生計を立て、家庭生活・社会生活を営んでいる「生活人」とその集合体である組織について、官・民の立場の違いによって、やや科学的視点を欠いた感情的な見方が言いやすい・大向こう(世間)に受けやすい風潮が、かなりあるのではないだろうか?

 巧妙な政治家は、その辺を煽り立て、ひたすら攻めて非難して、一方は、ひたすら謝って、そして結果的に萎縮してしまっている“図式”があるように、見えて仕方がない。なぜ、組織として、「反論」なり「弁明」をブッチャケ堂々と展開しないのか? それが「説明責任」というものでは、ないだろうか?  例えば、悲しいことだが、虐待で子どもが同居の保護者たるべき大人によって虐待されている可能性や証拠などを、折角、医者や学校や近所の者が児童相談所に通報したのに、児童相談所が適切な手を打ったのか打たなかったのか分からないが、結果的に、子どもが死に追いやられたとき、テレビ画面に出てくる児相の所長は、ひたすら謝っているシーが多い。児相の権限、人手、実情等、国民にもっとその時に訴えていけば、国民の虐待防止への理解も進むのではないか?  もちろん別の場では、例えば、広報活動や議会等でその辺もされていると思うけれど、謝るシーンばかりでは、児相に不信感を持ってしまう。例え、記者から詰問されようと、言うべきことは言い、議論すべきは議論する姿勢が、次なる虐待防止の施策の質の向上に繋がり、それが再発防止につながってくるのではないだろうか?  

 学校と親の関係も、言うべきは言い、聞くべきは聞き、共通の理解に到達することによって、結果的には、子どもの権利条約に言うところの、子どもにとっての「最善の利益」の実現につながっていくのではないか?

 役所と住民の関係も、お互いに言うべきは言い、聞くべきは聞くことによって、共に成長できるのでは、ないでしょうか? 
         (長くなりますので、明日につづけます)

  

2008年05月18日

住民主役委員会

 昨日、ある町の100人委員会全体会に出席し、発言する機会を得ました。

          住民主役委員会
      若者・よそ者・バカ者のパワーを・・・             
 委員会は、2年前から始まったようだが、委員は、当町住民だけでなく、他市町からも参加することができるということで、誘われて私は他市から昨年の6月頃に入って、今回初めて全体会で発言の機会を得た。「思っていることをしゃべれ」、ということだったので、住民の意見を聞くために創られた100人委員会の素晴らしさと、それに引き替え、私の住む市の姿勢を指摘する発言をし、部会からの提案の 「おもてなし」の精神 を補強するために、自己紹介も含め、 「近江商人の三方よし」 の話などをした。

 あとで、参加者から、「浮いていたみたい」と言われても、私はポカ~ン。「思っていることを」しゃべれと言われて、よそ者である私がこの委員会に入ってきた経過、どうすれば思いが伝わるかで、一住民が奮闘してきたことも伝えたくて、準備した文。決して、単純な自己顕示だけではナイ。初めての場で、何が場に合っているか、十分理解しないまま臨んだ私に勘違いがあったと言われればそれまでだが、私も ? だった。

 だけど、言ったことには悔いがない。町の100人員会はなかなかよい。住民が政策形成に参画し、町造りに住民の声が反映される。講演の講師が、 「若者・よそ者・バカ者」の感性の重要性 を指摘していたが、私も異質なものから学ぶ重要性を強調した。講師の言う「バカ者」とは、町造りに、 「ひたすらバカ見ても前へ進む人」 という風に定義されるらしい。エネルギッシュに前へ進める人。私に、それほどの馬力はないけれど、時には、バカになることも意味のあること、と慰めても、なにか割り切れない。

 「若者・よそ者・バカ者」の重要視は、確かに、納得。みんなが優等生なら、議論は深まらないし、前へ進まないだろう。例えば、橋下大阪府知事も、今は、よそ者で、バカ者(いい意味で)、そして若者だから、大胆とも見える(実は繊細な)提起をして、議論を巻き起こしていく。よい・悪いは別にして、彼が、庁舎のよそ者でなくなったら、183万票は遠ざかっていくだろう。
 学科試験重視で、学力を付けるチャンスに恵まれた人が選抜されやすいシステムだからこそ、役所や学校の世界に、問題が起こっているのではないだろうか? 学力を付ける、ということが、いかにも本人の努力だけのことのように捉えられがちだが、実際は何世代にわたっての“格差”による、大きな不平等があるように思えてならない。 

 チャンスに恵まれなかったり、人生の挫折経験者が“再チャレンジ”した結果として、役所や学校の世界に入っていく・・・この道が広がって、例えば、人生に回り道した人や元突っ張りや暴走族、ひきこもりさんなどが、例えば、ボランティア経験や職業体験などを加味されて、公務員や教師になっていく道が広がれば、多様な人生経験の人が入ってきて、どれほど、多様性に富んだ役所や学校になって、住民や子どもたちは救われていくことだろう。
 重ねてくどく言うと(強調して言うと)学力や免許だけが重視されると、それへのチャンスに恵まれなかった人を排除することになる。多様な人生経験がもっと尊重され、採用年齢も40歳代ぐらいまでに引き上げて、再チャレンジのシステムができて、多様な人材で構成される組織をつくっていくべきではないだろうか?

 ここで、閃いた私の造語・・・勇気あるバカ者は、世の中を変えていくために智恵を使い、勇気のナイ賢人は、下手を売らないタメに、智恵を使う。
 今までの、政治家や行政マンは、どっちかと言えば、後の方の人が多かったのと、違う?! 私の反省も含めて・・・。先輩からも聞かされて、上司の姿も見せつけられて、私の長い公務員生活も、下手を売らないことが、ひとつの重要なテーマだった。だから 「前例踏襲主義」や「長いものに巻かれろ」や「ことなかれ」意識が蔓延っていく。それらに抵抗するには、身を削る思いをする。それと講師は、質問に答えて、行政マンは、行政の専門家、と言っていたが、これには、やや ? 。教師でも、同様。住民や子どものためになることから“逆算”して、何を為すべきかを考えるのが “プロ”であり“専門家” であって、自分の保身から出発する行為は、果たして “プロ” と言えるか、どうか? 講師は、「霞ヶ関発の施策」の限界を述べていたが、これには同感。公務員の世界にも、「勇気あるバカ」を保障するセーフティ・ネットや土壌を準備すべきだろう。

 とにかく、参加者と私に ? を残したまま、終わったみたい。まぁ、却って印象に残っただろと、やや居直って、且つ、自分自身を慰めて、それでも割り切れなさは残る。ちょっとしたピエロ?!

 このブログを読む人には、なんのことか分かりづらいと思いますが、人生の理不尽に、新たな人生修行をしました。ただこの町100人委員会の熱気はうらやましいし、子どもから高齢者までが踊った「よさこい踊り」は感動的でした。住民主役のこの熱気が広がっていけば、政治は変わる・行政は変わる・・・そんな予兆を感じさせる集会でした。


  

2008年05月03日

偏狭から普遍へ

 妙にマジメな所があって、今風に言うと「マジッすか?」とかKYとか呆れられ叱られそうですが、「憲法記念日」に寄せて、少し、理屈と講釈を申しますので、ご寛容におつきあい下さいますようお願いします。     

       偏狭から普遍へ 自分自身を 
                解放 していきましょう


  われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において名誉ある地位を占めたい・・・    

  まずクイズをひとつ・・・「この文は、どこに載っている文ですか?」→→→→→賞品はありませんが、答えを言いますと、これは日本国憲法の前文の中の一 部です。この文の中の「偏狭と普遍」について特に申し上げたくて、書きました。
  

★・・・ 「日本国憲法!? ワーッむつかしい、堅苦しい」と敬遠する人もいます。が、じっくり読めば、国だけでなく、私たちの行動の指針となるような、貴重な考え方(理念)があちらこちらにあって、非常に参考になります。その中でも憲法前文は、私たちの生き方の指針になるようなことが、一杯詰まっています。「“偏狭”を地上から永遠に除去したい」とする考え方も、そのひとつです。

★・・・ 「偏狭」とは「かたよった狭い見方・考え方と、それによって起こされる政治的・社会的な主義主張や運動」と言えるでしょう。

かたよった狭い見方・考え方とは、広く世間で通用しないような、世界で通用しないような、正当な根拠のないジコチュウ(自己中心主義)な考え方です。例えば、ある民族は他の民族よりすぐれているとか、皮膚や目の色で優劣を決めつけたり、男性は女性より上であるべきだ、などという考え方です。「男にする」「男らしい」とか「女らしくしなさい」などという言い方も、この考え方の延長線上にあります。「男らしい、女らしい」ということよりも、まず「人間らしく」だと思うのですが・・・。

 偏狭は、合理的な根拠もなく、勝手な思いこみで決めつけたりするのです。これは、大変危険なことで、こうした考え方を国や政治家が持っていきますと、戦争や差別や迫害を国がしていく、ということになりかねません。これまでの戦争もそうしたことを背景に起こされてきましたし、戦後制定された日本国憲法はそうしたことを反省して、日本の国は偏狭を地上から永遠に除去しようと国の内外に誓ったのです。そして、偏狭な考え方を基にして、専制も圧迫もしない、人の人格を無視して奴隷的に服従させたりしない、平和を維持するために努力するということをうたったのです。

★・・・ 偏狭を個人個人の生活にあてはめて考えますと、無茶な理屈で自分の意見を押し通すということになります。不合理な差別意識にとらわれて人を見ていると、結果的にまわりの人を苦しめることもあり、ひいては自分自身の人生を窮屈にします。例えば、結婚にしても、封建的な思想からくる家柄とか社会的地位で相手を選んで、相手への愛情とか優しさとかが後回しになるという“淋しい”人生になりかねません。病気したり、苦しいときに助け合うのは、愛情や優しさであって、家柄は決して“看病”してくれません。

★・・・ 偏狭の反対語は「普遍(ふへん)」です。人間は、誰でも、ともすれば自分に都合のよい自己チューな、かたよった見方をしがちです。時には、自分自身の考え方を反省して、世間や世界で通用する、まわりの人も納得する、理屈の通った(合理的)な見方を身につけていかなければ、自分自身が世間から浮いてしまう、自分だけが気づいていない“裸の王様”ということになりかねません。国も個人も“裸の王様”になって、国際社会で孤立したり、世間や家族からも相手にされなくなったら不幸です。また、最近は環境問題でも、自分の国さえよければ、自分の生活さえよければ、自分の時代さえよければ、という考え方では、地球や人類の壊滅的破滅をもたらす可能性があることが指摘されています。偏狭から普遍へ、かたよった自分自身をも苦しめかねない狭い考え方から、自分自身を“解放”して、広い大地でのびのびと・・・
少し真面目に考えてみることも、味のあるゴールデンウイークかなと考えて書きました。ブログの3月1日号にも、形を変えてよく似たことを書いています。自己チューの多い昨今、同じようなことをくどくどと繰り返すお節介親父の弁を、ご寛容にお受け止め下されば有り難いです。

  

    どうか「人間宣言」を

テレビで、昭和天皇のこと そしてその時代を
 多くの著名人が 語っていた
国 世界 戦争 人間そして人生
時代に翻弄され 昭和を生きた人間に
 さまざまな思いが去来する
そして昭和天皇
この人も 時代に翻弄された人
他の人たちより 圧倒的に
自分自身を 生きられなかったことだろう

現人神と崇められ
一方で 人の子としての幸せはどうだったのか
幸せは 余人には測りきれないことだけど
誰もが味わいうる喜びと幸せはどうだったのか


崇められ 奉られ
誰もが味わいうる喜びと幸せを
余人の思惑で 曲げられなかったか・・・


戦後 天皇の「人間宣言」
人間であること
当たり前の幸せを 当たり前のように
時には 愚痴混じりで 涙ぐんで 
酒をしこたま飲んで 友と語らい
家族に八つ当たりなんかもして
そんな当たり前のようなことを
味あわせてあげたかった 人 そして人生

天皇と それを見詰める私たち
それぞれにそれぞれに
心の外でも そして心の中でも
どうかどうか「人間宣言」を 
  

「民意」って 「民主主義」って何?

  最近の日本の政治を見ると、「民意とは何だっ?」「民主主義とは何だっ」ということを言いたくなることが、数多くある。
山口2区衆議院補欠選挙の結果の受け止め方を見ても、政府・与党の有力者筋かから聞こえてくる同補選の結果は、必ずしも「民意」の現れでないというと言う。

 「民意」とは、何だっ? 国の政治の方向を決める「国のご主人様(主権者)である国民の意思」ということであろうが、その意思は、何によって判定するのだろうか? 

 メディアの実施する「世論調査結果」、請願のための「署名者数」、新聞等への投稿等さまざまあろうが、主権者である国民(日本の場合、成年有権者)が平等な一票行使によって行う「選挙」による結果が、最も、公的にも“納得”できるものではないだろうか?

  政治は、一部の政治家や組織のためにだけあるのではない。「国民の幸福」実現から“逆算”して、どういう政治家・政党・組織に政権を担ってもらうのがよいのか、という観点から、政治が為されるべきではなかろうかと、思う。

 今の政権与党を見ていると、先々代の小泉さんが選挙で獲得した議席数を、あとの世代が、しがみついて食いつないでいるみたいだ。

  政治に、先見性がなければ、国や社会は混迷する。社会に閉塞感が広がって、生き方に展望を失ったり、利己主義がはびこって、おぞましい事件や事故や、絶望からの自死行為が増えてくる。今の日本は、本当に、暗いニュースが多い。

 みんなで苦しさを分かち合い、子どもたちに明るい未来を少しでも提供できる社会や国を造っていくために、指導的立場にある政治家は、どうか「民意とは何か?」「民主主義とは何だっ」という原点を、いつも、忘れずに大切にして欲しい。政治を志した初心は、手練手管の老獪さで言いくるめるこtなんてことは、なかったはずだ。今なら、まだ脈もある。「民意とは何か?」「民主主義とは何だっ」という原点をもう一度、見詰めて欲しい。

  最後に、アメリカ合衆国第16代大統領のリンカーンの言葉と、その影響を受けたと思われる日本国憲法の前文の一部を、載せさせていただきます。

★ リンカーン
「人民の人民による人民のための政治」

  原語の“government of the people, by the people, for the people”は「人民から構成する、人民による、人民のための行政」という意味だそうです。


★ 日本国憲法でもその前文に

  そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。


  「お釈迦様に説法」ですが、皆様、政治に関心をもって、よく見ていきましょう。そうでないと、日本もどこかのような「専制政治」の国にならないとも限りません。しかも「議会制民主政治」のスマートな装いをした政治の下での、実態は「専制政治」に・・・。  

2008年04月28日

一瞬の短慮

 文章か詩かどういう表現の仕方が思いを伝えられるのか、何を語っても不謹慎、軽薄と捉えられるかも知れない、だから黙っている方がいいのか悩みました。ですが、今、「人の命」があまりに軽く扱われている国や世界の現実を少しでも改善できる一石になればと書きました。まだまだ思いを尽くせない、私の思慮の浅さを謝しつつ、お読みになるお一人おひとり様がお受け止め下さいますようお願いして、お送りします。


短慮 人の命 無限の苦しみ
それでも人間に手を差し伸べよう


光市母子殺害事件とその裁判
さまざまな報道がされ、
意見が交わされている

辛い 悲しい そして哀しい
 言葉で尽くせない
被害者お二人の人生と命の重さ
 被害者遺族今32歳になった本村洋さんの
  9年の苦しみの葛藤 
余人の誰もが計り知れない悲しみと衝撃

思慮深い言葉の一つひとつが胸を打つ
「笑ってもいけない」「息抜きもしてはいけない」
自責の念が 彼を襲い
憎しみ、怒り、そして犯人への殺意まで
しかし そうした中でも 
「自分一人では生きていけない」
人への感謝の思い
「犯罪被害者遺族基本法」の制定に
国を動かした
そして今 被告の元少年への思い
被告をきちんと報道する
  メディアの出現の期待まで
    記者会見で語り
同種事件の再発防止のために
 社会として 事件から学ぶ重要性を
     語られる


9年前までは 街にいるごく普通の青年を変えた事件
その犯人とされる 元少年 今は27歳


出会うはずのなかった
 被害者お二人と
 遺族の青年と
 被告の元少年
の 哀しすぎる現実の出会い


「妻と娘アルバムの続くことのない最後のページ」
      への悲しみを語る本村さん


時計の針を 9年前よりもっと前に戻せるなら
そこには 笑いも 喜びも 小さな幸せ 
      もいっぱい あったことだろう
一瞬の短慮が それを打ち砕いた


被告の元少年はどうか 心を自分で語り
次なる 最高裁は
被告の改悛の情と更生の可能性を
   審理尽くして欲しい


もし
私が近く導入される「裁判員制度」の裁判員なら
誰もが 「裁判員制度」の裁判員なら
どう審理して どう判断する?
我が身に置いて 我が人生と命に照らして
どう審理して どう判断する?


事件から学ぶこと
死刑制度の是非 終身刑 刑罰のもつ意味
元少年の生い立ちや環境
短慮に走る人を出さない子育てや教育のありかた
   家庭や学校や社会のあり方
国も 私たち個人も 学んで考えて話し合って
人間に手を差し伸べよう
被害者も 遺族も 加害者も そして私たち誰もが
 幼くして人生を断ち切られた夕夏ちゃんと
         同じ笑いを持っていた。
同じ人間 同じことで喜び悲しむ人間同士
人間が愛おしい  


一瞬の短慮が 命を奪い 人生を消していく
命 人生 命 人生 
事件は 家庭に 学校に 社会に 国に 
そして一人ひとりに
無限のことを 投げかける
 
  

      人生の師

 以前、私は、次のような詩(もどき)を創ったことがあります。

 人が オオカミを育てても オオカミ
 オオカミが ヒトを育てたら オオカミ
 人が ヒトを育てて 初めて人に


  生物としてのヒトに生まれてくることはできるけれども、人(人間)になることは難しい。ヒトは、親はもちろん、子どもに関わるすべての人の間で育てられて初めて人になる、と言うことを言いたかったのです。
 ですが、そもそも、人て何? または人(人間)になることが難しく、生涯、より人間らしくあろうというのは、まさに生涯の課題です。。
 
 今、学校の入学式や始業式の季節。。。。。人(人間)になるために、子どもたちは学校へ行きます。今、学校には否定的な声が多くあります。しかし、学校の役割はとてつもなく大きい。しかし、人になるためには、学校だけではもちろんできない。家庭だけでも、近所などの地域社会だけでもできない。子どもたちがこれから出会う、人生のどの場面も、人々も、子どもたちの「人生の師」です。

  子どもは時代的背景・社会的背景を背負って育ちます。親や教師や大人が、自分たちの時代はこうだったと言っても説得力が十分ではありません。ある面では正しいでしょうが、実情に合わなかったりする。

 それにしても、人間とはどういう生き物なのでしょうね。考えれば考えるほど難しく、だけど、そのことが面白く、人間たる所以かも知れませんね。


※ 現代日本の子どもたちを理解する一助として、考えさせられる文を発見しましたので そのアドレス ご紹介します。厳しいことが書かれていますが、ぜひ、お読み下さいますよう。

http://kodansha.cplaza.ne.jp/broadcast/special/2004_07_07/index.html

 それに、このブログの 3月11日号 もご参照下されば、うれしいです。  

2008年04月08日

オリンピックって?

 オリンピックって何? と考えさせることが起こっている。ひとつは、聖火リレーに対する中国のチベット人への仕打ちに対する抗議行動、きょうの報道のもうひとつは、柔道の日本代表候補に体重別選手権大会の優勝者が、必ずしも、選ばれなかったことだ。どちらも、命の輝きから遠いことから起こったことだと、いうことではないだろうか?

    命の精一杯の輝きを・・・

 そもそも、五輪大会は、人類の平和、人間の命の輝きの祭典ではないのか?
 道理でなく無理で、誰かの命の輝きを押さえつけて、一つの形、一人の勝者をつくるより、もっと大事な、全人類が輝く祭典であるということを、私たちは、考えるべきではないでしょうか?

 まじめにこつこつと努力して生きる者が報われる、チャンスを与えられる、平等のスタートラインに立って競争できる・・・現実の社会が、不平等が多い故、せめてスポーツの場だけでも、平等・公正がより期待される・・・大会の表面的な成功や金メダル獲得よりも、もっと大事なモノがある、と、熱狂できない思いでオリンピックを見ざるを得なくなっていくのが悲しい。

 スポーツ界でうれしかった報が、テニスの伊達公子さんの現役復帰宣言。私も体がまだまだ動いた頃、テニスに打ち込んで、そのころ、伊達選手とシュティフィ・グラフ選手の死闘のテレビに釘付けになった。それに、巨人軍の上原浩治投手の米大リーグへの挑戦の報。長嶋監督当時、敬遠の指令をベンチから出されて、彼が、口惜しそうに、マウンドの砂を蹴っていたシーンを思い出します。

 勝つために試合をするのだけれど、勝った負けたは数字として残るけれど、ファンは(私も一フアン)は、その時の準備・表情・仕草・思い・命の精一杯の輝きに感動し、鮮烈に覚えている。せめてスポーツだけでも、勝つためには手段を選ばないといった薄汚れたことはして欲しくない、して欲しくありません、オリンピックをわだかまりなく、見たい。あと何回、オリンピックを見られるか分からない私としては・・・。


※ 川内康範さんの訃報にも驚きました。享年88歳、最後まで、自分の気持ちを言い続けたことは立派です。「おふくろさん」をめぐって、森進一さんに思いを投げかけられたけれど、森進一さんもさらに頑張って、天国の川内さんに誉めてもらえるように、歌手として活躍して欲しい。  

      あまねく響け!



 音がする 野球の宴の 夢の歓声!
   あまねく響け  人 生きる 輪に



 
 まだ明けきれぬ朝、ドアーの向こうで犬が寝ています。本日は、短いですが、これにて失礼します。  

    君死にたまふことなかれ

君死にたまふことなかれ
君死にたまふことなかれ は、与謝野晶子が、
日露戦争に出征した弟の無事を祈った詩です・・・

ああ弟よ君を泣く
君死にたまふことなかれ
末に生まれし君なれば
親のなさけはまさりしも
親は刃(やいば)をにぎらせて
人を殺せと教えしや
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや


今、世界でも、国でも、社会でも
命が軽く扱われています
軽く扱うのは、思慮を欠いた政治のリーダーや
     己の力を過信して傲慢な行動をする人や
     暴力に走る人

扱われ苦しむのは、無辜の民や
     抗することのできない人たち


誰が、人を殺せと教えて育てるのでしょうか?
誰が、人を殺して死ねよと育てるのでしょうか?

誰が、殺されるために生まれてくるのでしょうか?
  

 きょうこそは休もう、と思いつつ、黙っていられなくて書いてしまいました。

 緊急!
チベットのことを知りましょう!
 
 


 今、チベットで大変な問題が起こっているようです。こういうことをブログで書くのは、大変、勇気がいることですが、もし自分や周りの人たちに不当なことをされ、命が脅かされる危険があれば、どんなに辛いことかと思い、黙っていられなくなりました。私は、大きな新聞社や放送局、政党や労働組合といった組織でもなく、一個人がブログで意見を発表するのは、勇気のいることで、まわりの人も心配しますが、それでも、敢えて、できるだけ「公正」を旨として述べます。

 この件について、中国政府とインドにあるチベット仏教最高指導者ダライ・ラマ14世の亡命政府の見解は、180度違っていて、一体どうなのか、一個人の私が最終的に確認するすべはありません。ただ、この真実はどうなのか、国や国際組織は調査して、結果を明らかにするのが、世界の平和や公正さの維持の点からも大切だと考えます。

 我が国の政府も、その憲法で「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」と国の内外に誓っていることからも、国際組織と連携して、声をあげ、人権侵害が起こっていないか調査すべきだと考えます。

 誰か、理不尽なことをされたときに、理不尽の実行者とまわりの加勢者や、傍観者がいれば
、それは「いじめ集団」そのものになります。誰かが、理不尽なことを止めさせるべく声を上げるべきで、それすらもない集団は「いじめ」集団です。国や国際的な組織も、同じ事だと思います。


 我が国は、一時、エコノミック・アニマルと呼ばれた時期もありました。金儲け至上で、公正な人間社会の構築に無関心であることを批判される言葉だったのでしょう。
 子どもたちに、いじめはいけない、と教えるのなら、国も、政府も文部科学省も当然に、チベットでの問題に関心を示すべきだと思います。
 人類社会に「公正」を実現するために発言し続ける・・・それが、我が国が国際社会で信頼を獲得する道だと思うのです。オリンピックで勝つことよりも、もっと大事なことが目の前に突きつけられています。五輪は、そもそも平和と友好の証として始まったものではありませんか


 私も勉強不足で、エラそうなことは言えませんが、このブログをご覧の方にも、「まず、知りましょう」ということをお勧めしたく、下記のアドレスを書きますので、ぜひクリックして、読んでください。


http://www.tibet.to/mondai/index.htm

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%99%E3%83%83%E3%83%88%E5%95%8F%E9%A1%8C

http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ryunosuke/9947/travels/tibet/abouttibet.html

http://tibet.que.ne.jp/okamenomori/index.html#A2

http://sankei.jp.msn.com/world/china/080317/chn0803171927015-n1.htm


 ※ 他にも、検索すれば数多く出てきます。上記は、その一部です。

※ 15分ほど前に、テレビで子どもが親や大人から放置されて死亡したというニュースが報じられていました。涙が出てきました。ここにも、弱者へのいじめがあります。どうか国も地方自治体も、こうした現実に全力で向き合ってほしいし、私たちも“虐待”に強い関心を持って傍観者にならないようにしましょう。  

2008年03月05日

相撲七番勝負!

 きのうと言っても、8時間ほど前に、小一の孫(男児)と押し相撲をしました。部屋の電気カーペットの上で、エイヤっコラヤっと、二人だけの押しくらまんじゅう(いや向き合って押し合っているから“おしくらまんじゅう”と違うかなface08?)をしました。

          相撲七番勝負

 face02孫は、一生懸命、私は、ややと言うよりかなり余裕。手加減しながら、七番勝負をし、4勝3敗で孫が勝ちました。私は、最近、働いているので、けっこう足腰は丈夫です。孫に「もっとご飯食べて、おかず食べて、強うならんとアカンぞ!」と声をかけて、相撲をしました。でもいつか、いややがてスグにでも、この力関係が変わって、孫が手加減する(手加減してくれるかな? いや、それより、相撲とってくれるかな?)時期が来るのも、時間の問題、と思いつつ、それでも汗をにじませて、七番勝負をしました。心地よい疲れ、うれしいよ・・・有り難う、ありがとう、孫殿! そして、こん平和な瞬間を用意してくれている家族、そして多くの人たち、有り難う、うれしいね!!!
     
     いつの日か 私よろよろ 孫余裕
 
 
 
 「おしくらまんじゅう」をインターネットで検索したら、 「子どもの遊び」 という項が出てきました。次のアドレスをクリックしてみてください。

http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E5%AD%90%E4%BE%9B%E3%81%AE%E9%81%8A%E3%81%B3



 なお、「大人の為のおしくらまんじゅう」という項も出てきましたので、ご参考までに、よかったらクリックしてください。
 http://portal.nifty.com/special/1121/




※ その数時間前に、市主催の「子ども虐待の防止と現状」についての学習会に出席し、大学の先生の講演を聴きました。先生の話す虐待の現状に、じわーっと、涙が目に滲んできました。 
 前から、子ども虐待には、関心を持っていたのですが、私なりに勉強を進めて、また思うところのことを、お送りしたいと思います。

 
 その腕で しっかりと受け止めて 世の子たち
          幸せ 笑い 人としての夢





 <子ども虐待の定義等の一般的な説明>については、次のアドレスをクリックしてください。
http://forensic.iwate-med.ac.jp/lectures/newest/node14.html  

戦後日米同盟 そして 経済大国へ

 face07ポツダム宣言を受諾して戦争を終えた日本は、戦後、GHQ(連合国総司令部)に統治されておった。その進駐軍の中心はアメリカ軍じゃったが、その加減で日本はアメリカと関係を深めていった。日本は1952年、沖縄と小笠原を除いて独立を回復する訳じゃが、同年4月28日を期して日米安全保障条約を結んで、同盟関係をつくっていった。

 face07日米安全保障条約は、1960(昭和35)年に改定されて現在に至っている訳じゃが、昭和30年代ごろから日本は「高度経済成長」政策を掲げて、特に1960年には、当時の池田内閣は「所得倍増論」をうたって、高度経済成長を本格化していった。 

 face07やがて主には、新幹線や高速道路の建設、東京オリンピック、大阪万国博覧会、石油危機、経済の低成長、バブル経済、その崩壊等を経て今日に至っている訳じゃが、今日本は不景気じゃと言っても、世界でも有数の経済大国になって、サミット(先進国首脳会議)のメンバーに入るほどになった。

 face07そうして、今の日本の若い人たちは、豊かで毎日が「お祭り」のような日本しか知らないけれど、ここに至るまで、数多くの失敗もあったけれど、人々の、真面目な努力もいっぱい積み上がってきたことも知って欲しいのじゃ。
 face08かつて日本は、軍事力で、海外に市場を求めに行った愚を犯し、多くの悲劇を招いたこと。
 face08そして、戦後、憲法で世界に恒久平和主義を誓ってミスはいくつかあったけど、それを克服しながら、人々は一生懸命に働き、今日のような豊かな日本をつくったこと。

  face07戦後の日本は、基本的には、日本国憲法前文にあるように「われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって・・・」の精神が脈々と流れていたように思う。自分たちだけのことだけでなく、相手のことも尊重する、まさに自己チューではなく、icon06国際協調主義face05善隣友好face02現代版「三方よし」icon06kao05の精神が、今の日本の国際的な信用を獲得していった、そして今の、問題はあるけれど、基本的には、豊かで平和な日本を造ったことに、つながった、と思うのじゃが・・・。
                                                                                (後日へつづく)

  

  明治以降 そして 戦後  
  自己チューより 善隣友好 


 face07明治時代になって、政府は富国強兵策を掲げ、“欧米に追いつけ、追い越せ”“脱亜入欧”をスローガンに、世界の一等国を目指していった。当時の欧米の強国がやったように、植民地政策をとり、日本は、朝鮮や中国やその他のアジア諸国に出兵して、人々の人生や生活を破壊していった。日本を中心に“大東亜共栄圏”を築くといった、思い上がった考えのもとに、アジアの人々や日本の民衆を不幸にしていった。

 face07そして、やがて日本は、世界中を相手に戦争をすることicon11になり、1945(昭和20)年、敗戦を迎えることになる。
  日本は、明治以降の政策を反省し、「恒久平和主義」「国民主権主義」「基本的人権尊重主義」を3大基本原則とする「日本国憲法」を施行する(1947年5月3日)。
  素晴らしい憲法はできたが、日本の国土は戦争で荒廃し、経済は混乱していた。日本の国は極度に貧乏で、当時の子どもたちは、食べるものも着るものも不自由しておった。(当時の子どもたちの様子は、マンガ“はだしのゲン”で、かなり分かって頂けると思います。それと、このブログ「夢想花」2月28日号もよかったら読んでください。)

 kao03そんな低調な日本の経済も、お隣の不幸のお陰で、上向いていくことになる。お隣の朝鮮半島で、朝鮮戦争が1950年から起こり、資本主義国アメリカの支援を受けた大韓民国と社会主義国ソ連や中国の支援を受けた朝鮮民主主義人民共和国との間で、一つ民族が血で血を洗うという悲劇が起こったのじゃ。当時、アメリカ軍は、日本に戦争に必要な物資を注文した。日本に、いわゆる軍需景気が起こり、日本の経済復興に弾みがついていったという訳じゃ。何か皮肉で悲しいことじゃね。

                          (後日につづく)
  

 韓国の大統領就任式が25日ソウルで行われました。新任の李明博(イ・ミョンバク)大統領と式に参列した日本の福田首相は日韓首脳会議を行い、「未来志向の日韓関係」を謳いました。両国がより近くなることを願って、日本と朝鮮の関係史を、今まで日本の先祖は近くの国々とどう共生してきたか・・・そこで、私なりにまとめた歴史を、本当にかいつまんだ形ですが、お送りします。

   チョー古老の話昔からの国際化
     自己チューより善隣友好



 face07 むかーし昔、地球が今よりもっと寒くて、後に「氷河時代」と呼ばれた時期があった。大陸と日本列島は地つづきで、人も動物も、行き来しておった。それが、約1万年前、地球が今のように暖かくなって、海面が高くなって、今の日本列島が形づくられていった。それから、この日本列島で、人々はやがて独特な生活のやり方や文化をつくっていった訳じゃが、それでも今のアジア大陸、特に朝鮮半島との交流はかなりあって、日本の文化は、中国や朝鮮の影響を、色濃く受けておった。 

 face07たとえば、日本の稲作も、大陸から伝わってきたものだし、日本の文化の柱ともいうべき「仏教」や「漢字」や「儒教」にしても、インド・中国・朝鮮から伝わってきたものなんじゃよ。それを日本人が発展させて、今のやり方をつくってきた訳じゃが、まあ、いわば、インドや中国や朝鮮は、日本文化の母国ともいうべき存在なのじゃよ。滋賀県の文化にも、そのあとが多く残っている。因みに、日本では
親孝行とか長幼の序とかと言う「仁義礼智」といった儒教の精神は風前の灯し火じゃが、お隣の国では、まだまだ健在で、今、話題の韓流スターも、日本人が失いつつある儒教の精神を、彼らはしっかりと持っているところに、日本のフアンは惹かれるのじゃないかな?

 face07だから、ながーく長く、大陸と日本は、仲良く交流し合ってきた。ところが、豊臣秀吉の晩年に、大陸進出の野望を持った秀吉が、軍隊を率いて、2度朝鮮出兵をして朝鮮の山河を焼き、多くの人を殺し、日本に拉致(らち)してきたし、朝鮮の文物(ぶんぶつ)を持ち帰った。この出兵は、朝鮮人民の激しい抵抗にあって失敗に終わる訳じゃが、日本に連れてこられた朝鮮の人が、すぐれた文化を日本のあちらこちらに咲かせていった。

 face07秀吉の次に日本を統一した徳川家康は、朝鮮出兵の愚かしさを知っていたので、徳川時代の間は、日本は朝鮮と「善隣友好(ぜんりんゆうこう)」外交を展開し、江戸時代に12回、「朝鮮通信使」の大列が将軍を訪れた。文化先進国の通信使の行列は、日本の各地で“憧れ”を持って迎えられたということじゃ。滋賀県でも、朝鮮人街道と呼ばれる道があるじゃろう。この道を、朝鮮通信使が通っていったのじゃよ。そうそう、それに忘れてならないことは、県の北部にある高月町出身の雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)という学者であり政治家が、朝鮮と日本の善隣友好外交に大きな貢献をした、ということじゃ。何かの機会に、高月町近くに行く機会があったら、ぜひ、芳洲の生家を訪ねられるとよい。町あげて、芳洲と日朝友好の歴史にまつわるものを大切に保存しておられる。
  長い歴史で、交流・発展してきた時期が、圧倒的に長いことに注目じゃよネ。不幸な関係になったのは、その時の人にとっては長くて深刻な時期じゃけれど、歴史的に見れば、秀吉の時と明治以降という短い時期であるのじゃよ。だから、両国は、昔から親戚以上のつきあいだった明るい面にも注目して、悲観的にばかりにならないようにネ!!  


  (後日につづく)

※ 「朝鮮通信使」について、詳しくは、このアドレスをクリックしてください。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E9%80%9A%E4%BF%A1%E4%BD%BF  

2008年02月26日

ひたむきが渦巻く

face02 ひたむきが渦巻く

  2時間ほど前に、テレビ毎日放送で、夕張市を舞台にしたドラマ「おふくろ先生のゆうばり診療日記」がありました。財政破綻の中でも、たくましく明るく生きる人々が描かれていました。困難の中でも、未来を切り拓こうとする人たち・・・翻って、夕張の人の苦しさは、他人事ではない。しかし、財政破綻ゆえ、工夫を凝らし、立ち上がる人々、そして若者。face05face01icon06face02face05

 face08私は、昨年の1月、夕張市の若者の「成人祭」への取り組みの熱情に感激し、次の句を詠みました。幸いに、全国新聞にのる機会を得、エールを送れたらいいな、と夕張の人たち、そして若者の目に留まることを願ってきました。

      ひたむきが渦巻く夕張成人祭


 私の住む市でも、財政危機が言われています。皆さまのお住みの市町は、いかがでしょうか?
  夕張の状況や地方の医療体制の状況等について、元埼玉県庁の職員で、現在は埼玉県の坂戸市にある城西大学の経営学部の准教授で行政マネジメントを教えておられる   伊関友伸さん が次のブログで、研究や取り組みの内容を報告されています。一度、ぜひ。このアドレスを開いてみてください。


http://iseki77.blog65.fc2.com/blog-entry-236.html

  

face08私は、2つの違う職種の公務員経験とその中でも長く外部の人と連絡調整する職務をしてきたことやアルバイトでの民間企業の経験、また自治会での民間企業で働く人たちとの交流もあって、官の世界の良いも悪いも、内側からも外側からも見てきて、いろいろ考えてきました。そこで、「行政と市民が一緒になって街を造ろう! お金のかからない行政改革」 ということをプリントにまとめて、会議に提出し意見を言いました。

「お金のかからない行政改革」
~行政と市民のパートナーシップ構築のために~


 私も、長い公務員生活をして、公務員やそれに近い職種の方の心情は、よく分かっているつもりです。私も若い頃は、勉強不足から傲慢で、無自覚な考え方をしたこともありま したが、徐々に府民・県民・地域社会の住民・子どもたち・同僚などの言葉に鍛えられ、また自分自身が一生活者として苦しみ、子育てに悩み、病気になったり、老境に入ってくるに及んで、一旦は、相手の立場に立ってものごとを考える大切さと 組織の外側から、組織を見つづけることの大切さ を学んでいきました。

今、公務員およびそれに準ずる人たちや組織のあり方が、しばしば大問題に>なっていますが、私の経験から得たその原因は?

◆・・・組織の 身内のかばい合い意識、隠蔽体質・・・かばいあい意識だけでは、組織は前進しません。私も同僚の批判で反省したことも多くありました。
ことなかれ主義、勉強不足、惰性、前例踏襲主義 自分の任期だけ無難に過ぎればよい、新しい事への挑戦は排除される傾向が強い。

組織や自分たちに対して、
            “異質”なものへの嫌悪と排除

しかし、力の強い集団や人たちへの迎合・保身体質・・・ 「強きに弱く、弱きに強い」行政への、住民・国民の不信不満への無感覚無感性   ・・・◆

     ↓↓                        
その結果としての、“血税”の意味を理解しない傲慢・無自覚・非民主的な対応の積み重ねが、大きなほころび(大問題)になっていく

と思っています。これは、たんに本市だけの問題でなく、国も、他、もろもろの半官的組織も、同じような体質を持っていると思います。住民や国民は、一部の人は別ですが、一生懸命働いて、少ない収入の中から税金を納めているのです。 誰のために、何のためにその仕事があるのか・・・ 誰でも、どの組織でも、時には、思い違いもあり、判断ミスもあります。その時、平素から住民や国民の声に柔らかい感性で向き合っていれば、より正しい方向に行けるのではないでしょうか。 

 官に働く人も、一人の人間・住民・国民であり、生活人です。そのことも大切にされ、 一生活人としての感覚や価値観を仕事に生かせる職場環境づくり ・・・このことは、今、先進的な民間企業では大切にしていることですが、「滅私奉公」ではなく、一生活人・家庭人としても喜びを持って働ける環境づくりこそ、今、日本中が考えなければならない課題
 だと思います。

 市民に愛され、支持される組織であるために、真に、住民の福祉向上に貢献できる組織を目指して、不断に住民の声を聞き、研鑽・改革をされるよう切望します。ほんの少し、官の体質が変われば、市民と手を結べます。それが、本当の「行政改革」ではないかと・・・。


 face08自分の住んでいる街を少しでもよくしたい、その一念から、またそういう思いを持った人もたくさんいることに気づきながら、声をあげています。イージス艦も、惰性と傲慢さがあったのかも知れませんね。私のような文句言いを排除するのではなく、市を愛し、人を愛するが故の、ひとつの例と理解してください。民主政治は、むしろ反対の意見に寛容であること、大切にすることによって、より発展するものですよね。
  

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