私65歳。ですが、今も、煩悩消えることなく、最近の世情にうろたえ、人生に悩み、人間に迷います。だから、本屋さんに立ち寄って、「人生の言葉」を探しました。そこで出会った本が、『続・ほっとする禅語70』(監修野田大燈・文杉谷みどり・書石橋博光、二玄社刊)でした。その中の言葉に・・・(「珠玉の言葉がちりばめられた」、と、本の宣伝にもなりますので、ほんのちょっとだけお借りすることをお許し願って・・・)。わかりにくい文なので、じっくり読んでください。


        騎牛求牛
    ・・・「牛に乗って、牛を求む」
    ・・・求めるものは、あなたの手にある 
 



 本には、こうありました。

  騎牛求牛・・・「牛に乗って、牛を求む」・・・求めるものは、あなたの手にある。
誰ですか? 牛に乗っていながら、牛に乗りたいという人は。
。。。(中略)求めるものは、外でなく内にある。自分の牛に愛情を注ぐと思い出せます。いい牛だったこと、いい牛に乗っていたこと。
・・・と。


 私は、この言葉は、「恵まれていることを忘れてはイケナイ!」という意味だと考えました。そして、次のように置き換えてみました。


誰ですか? 外装が人間でありながら、人間であることに不満を持ってイル人は???  
求めるものは、外でなく内にある。 自分という人間に愛情を注ぐと思い出せます。自分は、値打ちのあるいい人間でアルこと、人間という恵まれた人間の服(外装)を着て生きてイルこと 
。。。。。と・・・。


人間が、この地球上に登場したのが、500万年とも、それ以前とも言われます。遺伝子で調べると、人間と共通の先祖を持つ他の動物がいて、その種の動物は、多少は進化したかも知れないけれど、基本的には、今も、そのまま他の動物の姿のままです。人間ほど大きな変化はありません。それはそれで幸せかも知れないけれど、進化した結果の、人間という外装(外観)を着ているが故に、ああでもない、こうでもないと考えることができて、悩むことができて、いろんな種類のおいしいものも食べられて、唄も歌えるし、恋もできるし、芸術にも触れられし、人の愛に感動することも出来るし、笑うことも出来るし、ひいきのプロ野球やJリーグチームの活躍に胸躍らせることも出来ます。

 人間であるが故に、悩むことが多く、つらいから人間をやめよう、死んでしまおう、という人もいるけれど、そんなのモッタイナイ!!! 人間って、いいよ。そんなに悪くない!!! つらいことがあっても、悲しいことがあっても。その時期が過ぎると、人間はああでもない、こうでもないと考え直すことが出来る。

 悪い人ばかりでなく、よい人もいっぱい居る。悪い人に見えても、本当は、よい面を持っている人もいっぱい居る。いろいろ見極めて、そんなことを考えられるのも、人間ならではのこと・・・。人間ってイイよ!! もし、生まれ変わることができたら、人間に生まれ変わりたい、できれば、今度は女に、とか、男に、とかはアルだろうけれど、鎖につながれて一生を過ごす犬や人間に食べられてしまう魚さんより、人間ってずっと、ずっと、もっとイイよ!!!

  少し、私の考えを押しつけすぎかな? だけど、だから、そういう人間の外装を着ているコトの素晴らしさに感謝して、もう一度、ハイ合唱!


誰ですか? 外装が人間でありながら、人間であることに不満を持ってイル人は?
求めるものは、外でなく内にある。自分という人間に愛情を注ぐと思い出せます。自分は、値打ちのあるいい人間でアルこと、人間という恵まれた人間の服(外装)を着て生きてイルこと
。。。。。。・・・と。


※ 「段落」を付けても、画面にうまく反映されませんので、ご容赦ください。  

2008年04月21日

失いつつあること

幸せってなに? 人間って何?

  ここ数日、シルバーさんのお世話で、配布物を各戸に配り、足棒状態でくたくたです。ですが、健康一杯になり、妻手作りの夕食もビールも酒も格別においしく、妻と私の余計なひとことの応酬合戦もなく、夕食後、極めて気分よくパタンキュ~で夢想花が夢の世界へ入り、今から1時間半ほど前に目が覚め、酒の酔いも醒めて、今、パソコンに向かっています。そうしたくたくた足棒状態の中で、2日前の土曜日の午後、 「遠野の伝承に学ぶ わらべうた」の学習会 に参加しました。本当言えば、そのことを詳しく書こうと思ったのですが、睡魔がまた忍び込みつつありますので、きょうは、事前に送られてきたファックスの中の一文で、お茶を濁そうと思います。(コラッ! 「濁す」なんて、読者の皆様に失礼やないか! でも「泣く子と地と“睡魔”には勝てません」ので、失礼をお許しください。)

伝承の子育て、人育てには、人としての心豊かな生き方や、子育ての知恵が奥深くひそんでいます。情報化社会の中で、人らしく生きていくことの原点を見直すきっかけにしたいものです。
・・・ と。


  私、思いますのに、昔の人、とくに庶民は、物質的には貧しい中で、お金も乏しく、それこそ、我が身をくたくたに疲れさせて、身を粉にして、日々、暮らすのが一般的だったのでしょう。

  終戦後、日本が経済大国になるまでは、そんな感じで、私には、父親は小六で他界しましたので、特に、母親が身を粉にして働いて、私たち子どもに食べさせていたことを思い出します。

だから、今、特に足棒状態で我が身を使って、働くことの素晴らしさを実感できている今の私故に、私とは比べものになりませんが、昔の人、特に庶民は、せめて自分の言うことを聞いてくれる自分の体を目一杯使っての労働の大切さ、その中で人と人の助け合いなしに生きていけない、そして人のお陰様で生きていることを実感していたのでしょう・・・というようなことを、おこがましくも夢想しているのです。今の子どもたちには、


♪母さんが 夜なべをして 手袋あんでくれた~♪

の歌を実感できるかなぁ? 年寄りは、つい昔のことを言いたがりますが、昔貧しくても豊かにあったものが、今豊かになってきても貧しくなったり、なくなりつつあるものへの心配に、身を焦がすのです。睡魔がウィンクして寄って来ました。どうか、よい夢がみられますよう・・・。もうひとつ、蛇足の詩(もどき)にて、今宵ではない、今朝は失礼します。
  

      失いつつあること

貧しくても 豊かにあったものが
いま、豊かになっても、失いつつあることに
心乱れる
幸せってなに? 
人間って何?

幸せってなに? 
人間って何?
  

2008年04月16日

花咲くを願って

  一昨日、「まず、誉めましょう」の終わりの部分で、私の考え方を、次のように記しましたが、その続きを記させていただきます。

※ どうも、日本と言う国は、照れがあるのか、謙譲の精神か、ひどい言い方ですが、「豚児」とか「馬鹿息子」とか「愚妻」とか「宿六」とか、けなす傾向が強いです。テレビドラマでも、けなし合って親子や夫婦の情愛を示すようなシーンが多いように、思います。 (以下、つづきます)




日本人の苦手・・・私も・・・愛と感謝の言葉

  ずーと以前、別のある講演で「豚もおだてりゃ、木に登る」と言って、講師が聴衆の笑いを取っておられましたが、私も、心底、おだててくれれば木に登るにと、思いました。皮肉とイヤミとあてこすりを言う前に、まず感謝と愛の言葉を言いましょう・・・むつかしい(?)けど。むつかしいと思うこと自体がイカン!。なんで、家族にそんなに気を遣わなアカンのや、というご意見もあろうと思いますが、損して得取れ、家族にこそ気を遣うべし、は人生の鉄則では、と考えてオリマス。

 それから、親野さんは、 「自分を、誉めましょう」 とも言っておられましたが、全く、同感です。
 
  他人が、誉めてくれないなら、せめて自分だけでも自分を誉めましょう。歌にもありました。「着てはもらえぬセーターを ♪♪」を、「読んでもらえぬブログを ♪♪」をと、(これって、イヤミ or ヒガミ?!) 自分自身を慰め、鼓舞しましょう。



※ 昨日昼前の約2時間、公園にゴザを敷いて、自治会の女性の方が頑張って、桜の花見の宴がありました。女性陣お手製の桜餅がおいしかったです。妻も、その中に入って、家ではあまり見せない満面の笑みをしていました。いい天気で、やや暑いぐらい。若いお母さん方や子どもも参加し、私はひとりで行くのはやや照れくさいので、娘・1歳の孫と参加しました。男性陣の参加は、やや少ないようでした。世は後期高齢者医療制度の施行に伴う年金からの保険料天引きの開始・・・そういうこともしばし忘れ、ともすれば、地域社会の連帯が失われ、人が孤立しつつある今、こういう取り組みは素晴らしい! 昔は、こういうことがよくあって、子育てや時にはお節介なことも言い合って、やや干渉気味なれど、助け合うこともよくあった。
  アリガトウ、これからも、粘り強く、ネバ~リづよく、いつか、人の心に花が咲くことを願って・・・
 ここでへたな二句を。


     桜咲く こころ花咲く 人が咲く    

    桜見て 手のぬくもりで 開く笑み
  

2008年04月15日

いい遺言の日

♪♪ あなたの後姿にそっと別れを告げるとき 
 あなたの髪のあたりにぽっとあかりがさしたような
 うらの木戸をあけて
 ひとり夜に出れば、あかりの消えた街角に
 足も重くなるけれど
 ぼくの遠いあこがれ 遠い旅は捨てられない

 許してくれるだろうか ぼくの若いわがままを
 わかってくれるだろうか ぼくの遥かな彷徨いを
 いつか疲れ果てて
 あなたのもとへきっとたどり着くだろう
 
 ぼくの遠いあこがれ 遠い旅が終わるときに
          ・・・(中略)・・・ 

 あなたには見えずとも
 語りきれない実りを 
    ぼくはきっと持ち帰ります。きっと ♪♪





  別れ そして 想い・・・
きょうは、いい遺言の日


 ・・・昨日の午後、小椋桂さんの「木戸をあけて」を聴きました。少年が自立の旅立ちのために家を出るときの母親への想いを歌ったものですが、この歌を聴くたびに、私自身の母親との別れ、また息子や娘との思い出が蘇って、しんみりします。聴きながら、数年前の年賀状を手にして読み返していました。懐かしい名前と筆跡。その内、何人かの方は故人になっています。

  人生に別れは避けられないことですが、どんな思いを伝えたかったのか、受け止めることができたのか・・・
  話は、突然変わるようですが、実は、人が思いを伝えるための智恵のような「遺言」・・・きょうは「いい遺言の日」だそうです。


子や孫や後世の人たちに何かを伝えたい・・・そういう思いの人も多いと思います。 私もそのひとりです。 と同時に、親や先人の人たちの思いに気づかないまま今に至っていることにやっと気づいている・・・そんな思いにとらわれる人もいると思います。私も、そのひとりです。

 
遺言というのは、単に、財産や法律的なことだけでなく、人と人の出会いと別れを深く考える・・・そういう契機になるものではないでしょうか?



  そういった契機になればと、ここでは、財産や法律的なことの遺言について、適切に書いておられるHP「やぶき行政書士事務所-相続・遺言サポート-」をご紹介しますので、下記アドレスをクリックしてみてください。

http://www.yabuki-office.com/page023.html



 
※ 話は変わりますが、ある方から、コメントを受け付けないのかとご質問を頂きました。私には、技術的にももうひとつ自信がなくて、全面開放ではなく、今のような状態にしています。一方通行的なようで心苦しいですが、ご寛容の程をお願い申し上げます。

  

2008年04月12日

挑戦できる機会と夢

 決して、桑田真澄投手の挑戦にケチをつもりでなく、彼の偉業には驚嘆している私ですが、ただ彼の言った「挑戦」という言葉に触発されて、「挑戦」ということについて、私流の考えを、ご披露したいと思います。

  挑戦できる  は、公平?

  現実には、環境や境遇によって、挑戦できる機会や内容に違いがあります。環境や境遇で許された条件内で、または条件をやや越えたり、または条件を無視したり反発したりして、「挑戦」が生まれる、と思います。ただ、その人が、それまで、育ってきた環境や境遇、文化的土壌や経済的土壌と無縁に、「挑戦」が生まれたり、挑戦できる基盤である「人間として力」ができる訳ではありません。 平和な時代と戦争の時代、豊かな国と貧しい国や地域では、挑戦のスタートとなる「機会」やゴールとなる「夢」のあり方が違います。 戦争時、多くの若者が、機会を奪われ、夢を絶たれました。今、世界中でも、内戦や暴力、貧困や差別のために、「機会」もなく「夢」見ることすらできない子どもたちが多くいます。
 どう自分の夢を追い求め、挑戦するか、例えば、貧しい発展途上国の子どもたちの見ることのできる夢は、日本の子どもたちの見ることのできる夢とは違います。

  だから、オリンピックで金メダルを取るための努力も貴重ですが、潤沢にお金をかけられる国とそうでない国や地域の人たちが、同じ場で競争して順位が決まるという現実にも、日本に住む私たちは眼を向けなければならないのではないかと・・・。

  スポーツは、世界中を同じ価値観で、勝った負けたで興奮させる例があることは、サッカーだけではありません。しかし、同時に、試合場に至るまでの過程での、様々な背景やドラマを理解することも、大げさに言えば、世界理解・人類理解に繋がるのではないかと思います。

メダルを取ることだけに一喜一憂するのではなく、平和にスポーツできる環境に「感謝」して、世界の子どもたちが「挑戦できる」すなわち「夢追える」環境づくりに貢献する・・・それも立派な「スポーツマン or スポーツウーマンシップ」だと思うのです。初めは、個人的な動機から出発しても、スポーツで経験した「広い視野」を活用して、人類の福祉に貢献していく・・・そういった人は、米大リーガーにも多く見られし、他の芸術等の分野でも、見られます。その点、日本のアスリートには、そういう視点が、やや弱いのではないか・・・これは、教育の貧困の成果かも(?)、と思ったりもする、理屈言いの私です。

  選手のシビアな練習の日々に、あんなことは到底真似できんワと、驚嘆しつつ、そんなことも考えています。

  だから、メダルをとった人を賞賛すると同時に、メダルを取るにはほど遠い環境の中で頑張っている、世の多くの無名の「心のメダリスト」にも光りあれ! 
と。 スミマセン、理屈におつきあい頂いて・・・。ですが、スポーツって何だろうと、考える最近の日々なのです。  

2008年04月11日

命ある限り挑戦!

        命ある限り 挑戦

 昨日の朝テレビで、先日、引退を表明した桑田真澄投手へのインタビューがありました。その中で、彼は言います。

★ これだけ永く野球をさせて頂いたことに、ファンや関係者や感謝。

★ ものごとには「光」と「陰」があって、怪我をしてリハビリしているときも、必ず、光のくることを信じて取り組んだ。

★ 命戴いている限り、いろいろな挑戦をしていきたい。

と。彼が、高校時代に、彦根球場へ来たとき、登板しませんでしたが、遠くから見た、帽子を目深にかぶった姿が、今も、鮮明に覚えています。努力の大切さと多くの夢を与えてくれたことに、深く、感謝です。これからも、さまざまなメッセージを伝えて欲しい。
ここで一句。

 挫折越え 道ひたむきに 陽光(ひかり)笑む


 <蛇足> 実は、桑田選手のものの見方は、私の見方とよく似ているなと、勝手に思っています。桑田選手は、すごい人やと思いつつ、同時に、やや、「挑戦」ということについて、私流の意見も持っているのです。(長くなりますので、また、その意見をとうとうと述べますと、結局、何を言っているのか分からなくなるので、後日に、もう少し、私の頭を整理して申し上げます)

 

  

逃げ出さないことの
     難しさについて(その3)



face08社会の“こうあるべし”という意識も大事だけれど、それにも“クールな目”で、反省と点検を加えねば、“こうあるべし”意識が過剰になってくる。過剰になると、ファシズムにつながってくる危険性もある。“こうあるべし”の過剰例を挙げると、我が市の研修会における「不断の努力によって相互の人権を擁護することを誓う“人権擁護都市宣言”」の“起立・唱和”なるものにも、私は疑問を持っている。「宣言」自体の中身はよいことが書いてあるし、この宣言に至る人々の願いには、私は大いに共感している。それらのことを、研修会の中で説明するだけでも立派な研修会なのに、研修会参加者を“起立”させて“唱和”させる市当局に言いたい。多くの市民は、反発を覚えていると・・・。「ずかずかと心の中に入ってくる“踏み絵”みたい」とか「教育勅語を言わされているみたい」とかの声もある。そういうことをしていると、結果的には研修の目指すものと“逆行”させているのではないか・・・、と私は市当局に提言してきているけれど、なかなか名もなく貧しい市民というか孤老の話は聞いてくれない。「形式」も時には必要だけれど、納得のない強制または半強制(事実上の強制)は危険だ!

 face07個人の人権と社会全体で大事にしていること(憲法では“公共の福祉”と言っているようなこと)のバランスとそれぞれの反省の上に立って、なおかつ「そう簡単には逃げ出さないぞ、向き合っていくぞ」たるものを発見していくことが大事だ、そうして初めて逃げ出さない決意を固めていくのじゃないか、ということを、さんざん理屈をこねた末に言いたかったことのようです。ジャンジャ~ン。

face08
 話は、あっちへよろよろ、こっちへたどたど行っていましたが、いろいろなことを考えさせてくれるドラマ「フルスィング」は、やはり真面目でよいドラマなのですネ。と、当時書いていたのですが、先週の土曜日は、つい寝てしまって 見られませんせん でした。ごめんちゃい。
 なお、私は決して 「見れません」 とかの「ら」抜き言葉は、使いたくありません。ご参考までに・・・。これも集団ヒステリーか? いや、そうじゃないよねkao05。  

 だいぶん旧聞に属しますが、1月28日の記事の続編です。1月28日からいろいろあって、記事自体は早くから書いていたのですが、発表はきょうになってしまいました。1月28日の文と合わせて、私のつたない文を読んでくだされば・・・。face02 結果的に、本日も「濃厚」になってしまいました・・・。

「逃げ出さないこと」の
     難しさについて(その2)



 face08 ここで、現実の生活に話を引き戻すと、特に、高齢になった私の実感から言うと、ストレスの高まる集団に居続けることは、相当な体の無理が来て、免疫力が低下し、病気の原因になってくる。現役の時なら、生活のためとか、職場における評価を気にしてとか、果ては出世を意識してとか、それ相当に無理をしてきたけど、退職して、それらにワンクッション置けるようになって、自分の残された人生と天秤にかけながら、毎日、考えている。だから、一層、私は(君子ではないけれど)、「君子危うきに近寄らず」とか「三十六計逃げて」身の安泰を計ることがある。だけど、逃げてばかり居たら、社会との接点がなくなり、ボケの始まりになってくる。過剰なストレスも困るけど、適当なストレスもないと、脳が働かない。

 kao07日本社会では、集団ヒステリ-みたいな状況にすぐなるし、そこに浸かる方が集団内で生きやすい場面は結構ある。今さんざん問題になっている組織の“偽装”や“身内のかばい合い”意識や“隠蔽”体質も、そこには風通しの悪い集団ヒステリーとそれに身を委ねる“ことなかれ”主義と“保身”意識が横行しているのでないか? 

 水泳 “火中の栗”を拾ったり、集団ヒステリーにもの申すことには、かなりの勇気と反発覚悟の根性がいるし、陰口や仲間はずれに対する“鈍感力”も必要になってくる。集団ヒステリーは、よきにつけ悪しきにつけ何かをする大きなエネルギーを生むことがよくあるけれど、そこに差別や偏見や弾圧や抑圧や疎外を生む危険性もある。多くの人の苦しみも、ここにあるのではないか?  

 face08お互いの“違い”は“違い”と認めつつ、そうした中で何かの“共通の基盤”らしきものを作っていけたら、住みよい社会・よい集団・よい夫婦・よい家庭になるのではないかと
夢想する次第でありまするkao05

                        (長いと疲れますので、明日につづく)  

「才能とは、逃げ出さないこと」について、少しうんちくを・・・。「省エネ」を言いながら、真夜中にそーぅと、このブログ発表します。高齢者の夜は長い。けど早く寝て、「省エネ」 に努めます。

「逃げ出さないこと」の
     難しさについて(その1)


 ドラマ「フルスイング」で言われたこの言葉・・・ドラマだから、ある側面を強調して表現している面がると思うけど、
face08現実の私たちについて考えてみると、逃げ出さずに生きていくことは、すごく難しい。たとえば、いじめの渦中にいる子どもやDVに苦しむ人や人権侵害の被害者にとっては、とりあえずは、まずは逃げ出し避難することの方が正解、「逃げ出す権利もあるなんてことは事実が証明している。現実に、被害を受けている人にとっては、まわりの人を説得するなんてことは、手負いの傷を受けて、たった一人で周りの無理解に立ち向かえなんてことは、非現実的なことだ。
 
 face05諺にも「三十六計逃げるに如かず」とか「君子危うきに近寄らず」というのがある。刑法という法律にも、その第37条で「緊急避難」という規定がある。一定の条件では、逃げ出す権利を認める方が、日本国憲法第13条による「幸福追求権」の要請にかなうという考え方だ。ここで、刑法第37条と日本国憲法第13条周辺の個人の人権に関する規定を紹介すると、

【刑法】
第37条〔緊急避難〕
 自己又は他人の生命、身体、自由又は財産に対する現在の危難を避けるため、やむを得ずにした行為は、これによって生じた害が避けようとした害の程度を超えなかった場合に限り、罰しない。ただし、その程度を超えた行為は、情状により、その刑を減軽し、又は免除することができる。
 前項の規定は、業務上特別の義務がある者には、適用しない。

【日本国憲法】
第11条〔基本的人権〕
 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
第12条〔自由及び権利の保持義務と公共福祉性〕 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。 
第13条〔個人の尊重と公共の福祉〕 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。 
第14条〔平等原則、貴族制度の否認及び栄典の限界〕 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
 華族その他の貴族の制度は、これを認めない。
 栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。

です。今まで言いたかったことは、「逃げ出す」ことはかっこわるいこと・否定すべきことであって、「逃げ出さない」と言えばなにかかっこよいこと・肯定すべきことのように思われがちだが、決してそうではなく、上辺のかっこよさに振り回されることなく、人間の幸福追求のためには「逃げ出す権利」も留保して、行動の選択肢の中に「逃げ出すこと」もあり、それでもなお、逃げ出さないで対峙しようと決めたことには、そう簡単に引き下がらないぞ、ということだろうと思うのです。まわりくどい理屈でスミマセン。。。。。。「理屈こき」!!の私メの面目躍如でございます。

 kao03勇ましいかっこよいことだけが称揚されるのでなく、愚痴も言え、弱みも見せられる、そういうことに寛容な集団であって、初めてすべての人が生き生きできるのではないかと言いたかったのです。書きながら、もう一つ、うまく表現できません。以下、さらに次回以後につづけます。
 

 face08ここで、現実の生活に話を引き戻すと、特に、高齢になった私の実感から言うと、ストレスの高まる集団に居続けることは、相当な体の無理が来て、免疫力が低下し、病気の原因になってくる。現役の時なら、生活のためとか、職場における評価を気にしてとか、果ては出世を意識してとか、相当無理をしてきたけど、退職して、それらにおワンクッション置けるようになって、自分の残された人生と天秤にかけながら、毎日、熟考している。だから、一層、私は君主ではないけれど、「君子危うきに近寄らず」とか「三十六計逃げて」身の安泰を計ることがある。だけど、逃げてばかり居たら、社会との接点がなくなり、ボケの始まりになってくる。過剰なストレスも困るけど、適当なストレスもないと、脳が働かない。

 kao07日本社会では、集団ヒステリ-みたいな状況にすぐなるし、そこに浸かる方が生きやすい場面は結構ある。だけど、これはけっこう危険で、国も個人も過ちを犯しやすい要因になってくる。そこで個人の幸福を追求することが、集団ヒステリーの過ちを防ぐ理念として登場してくる、あまり、話が長いと読んでもらえないので、、次回に、ご迷惑でしょうが、小さい字のことから、とか「逃げ出してばかり居られないこと」等、話があちこちに飛ぶけれど、本人は問題提起のつもりの文をつづけます。
  

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