この歌が、頭の中をぐるぐる回って、離れません。

    思い詰める前に
ポ~ニョ ポ~ニョ ポニョ ポニョ 

宮崎駿監督の新作映画「崖の上のポニョ」の主題歌だそうで、あと「魚の・・・」と続くらしいのですが、私にとっては、「ポ~ニョ ポ~ニョ ポニョ ポニョ」という部分のみが頭の中をぐるぐる回り続けているのです。歌っていると、心が穏やかになり、平和な気持ちが続きます。イヤされる、と言うのでしょうか・・・。

 そこで、考えました。。。。。この歌を、いつも歌って、心を平穏に、イライラしたときに活用できないか、と・・・。


 ところで、話変わりますが、最近の犯罪や非行には、次の3つの型が多いそうです。

① いきなり型
・・・あんなよい人が、よい子が、とてもしそうにない人が、いきなり犯罪を犯すという。
② ストレス型
・・・ストレスに耐えかねて、爆発して。これは、古典的にもあって、浅野内匠頭の松の廊下での刃傷も、これだという説があります。
③ 模倣型
・・・いろいろな報道に刺激されて、模倣して。

  3つともが、複合して起こる場合もあるし、そのうちのどれかが大きな要因を占める場合もあります。人間は、未来を考えられる唯一の素晴らし生き物であると同時に、自ら未来を閉ざこと考える生き物でもあります。生命を輝かせることに一生懸命になれる生き物であると同時に、生命を否定し、自分自身をすら抹消してしまうことに走るかも知れない悲しい生き物でもあります。

  本当は幸福になるいことを願いながら、未来に絶望し、生きること否定する・・・ツラいニュースが、連日、報道されています。どんな事情があるにせよ、最後の引き金は、行為実行者の“思い詰め”ではないでしょうか?
 秋葉原の事件にしても、14歳中学生のバス・ジャック事件にしても、本人の“思い詰め”が、大きな結果を招いています。

  悲しいことを避けるためにも、思い詰めない、誰かに相談する、周りの人が手を差し伸べる、ことが大切だと思います。

  「思い詰めない」ということについて言うと、 “遊び”の精神がもっと必要 なのではないでしょうか? “遊び”は自動車のハンドルにもありますし、もしハンドルに“遊び”がなかったら、自動車の運転は、窮屈で危険極まりない。・・・そうです。機械工学的にも、“遊び”の有用性は実証されていますし、人間工学的(こんな言葉は、あるのかな?)にも、当然、必要なことです。

  ところが、今、“冗談”も通じない、これは、一つの価値だけを至上に評価して“一つだけ色に染めたがる”子育てや、真面目一色をよし、とする社会風潮の結果として、ヨユウなき生き方に、苦しんで、それをどう“打開”する方法が分からない
。。。。。

  皮肉と諧謔、ユーモア、・・・高等なユーモアは、人への愛情あるものだとは思うけど・・・余裕よゆうヨユウ、打たれ強さ。あの14歳少年も、親の言うことを額面通りに受け取った結果として起こった、と報道されています。私も、人の親として、その未熟故に、わが子にひどいことも言ってきましたと、反省しきりです。
  私も、思春期、家出や自殺も考えました。だけど、親なればこそ、耳に痛いことや、キツイことも言わはるのやで、と必ず、近所のお節介おばさんたちやお年寄りが言ってくれたものでした。


今は、ちょっとたしなめてくれる第三者的大人がまわりにいません。思い詰める前に、ちょっと、立ち止まる、脇に眼を逸らしてみる、耳をアッチャ向いてホイっ状態にする・・ということを、まず、自分でもしていきましょう。ということを言いたいのです。


相手もオレとチョボチョボやアホや未熟者ヤとさまざま思考回路を“別途”用意スル・・大人も子どもも、そこで、今、取り敢えず、オススメしたいのは、冒頭の「ポ~ニョ ポ~ニョ ポニョ ポニョ ポニョ」のフレーズを、繰り返しくりかえし、口の中で、モグモグ歌ってみることです。できれば、鏡も見て、他人が分かってクレナクテモ、自分自身の面白さを“再発見”しましょう!  打たれ強くなりましょう!


ポ~ニョ ポ~ニョ ポニョ ポニョ ポ~ニョ ポ~ニョ ポニョ ポニョ ・・・・・・自信を持って、あなたは、世界でも類い希なユーモアのセンスの持ち主ですから。イヤなことを言った奴を「クソったれ!」とでも思いながら、「ポ~ニョ ポ~ニョ ポニョ ポニョ ポ~ニョ ポ~ニョ ポニョ ポニョ 」と歌いましょう! と、いうことを、オススメしたいのです。子育てにも、この唄を、どうぞ。イライラしたらアカンで~!   

2008年06月28日

突然且つ恐縮です。

 突然且つ恐縮です。例によって訳の分かったような分からないような、自作の詩をお送りします。苦笑まじりにお読み下さいますよう・・・。


   過ぎし日に そして未来に

ひとつの 言葉の 重さ
ひとつの 思いの 深さ
ひとつの 生活の 他の生活のとの つながり
ひとつの 人生の 重さ


今までどれほどその重さに気づいてきたことだろう
今までどれほどその深さを考えてきたことだろう


ひとつの 喜びの 豊かさ
ひとつの 悲しみの 背景
ひとつの 怒りの 持っている 意味
ひとつの 楽しさの その人にとっての
                  かけがえのなさ


今までどれほどそのことに
              目を向けてきたことだろう
今までどれほどそのことに
              耳を傾けてきたことだろう


     気づくこと
     考えること
     目を向けること 
     耳を傾けること

     気づくこと
     考えようとすること
     目を向けること 
     耳を傾けようとすること
     こころ寄せようとすること

     



 ~~~     ~~~     ~~~
【低炭素 勝手に協賛 キャンペ~ン!】
できるだけ自動車などを使わずに
徒歩・自転車・電車などで移動しましょう。


※ 言い訳・・・真夜中にパソコン打って、何が「低炭素や!」とお叱りを受けそうですが、ブログの準備は、前日の昼間にして、真夜中にぱっと目が覚めたときに、このようにUPすることを心がけています。「心がけている」ということは、例外も、時にはあるということです。高齢者の夜の長さと低炭素の両立は、ツラい! トホホ(泣)! 
 だから、せめて、できるだけ自動車を使わず、自転車を使うことを実践しています。ガソリン代も高いことですし・・・。トホホ(号泣?)! 
 

※ 左サイドバーのオックスファムの  mee to キャンペーン  は、「きっこのブログ」さんのご紹介で貼り付けたものです。赤ちゃんをあやして、その下の欄をクリックしてみてください。  

   『自灯明』  『法灯明』


  最近、20代のお母さんと話したとき、彼女は、秋葉原通り魔事件の容疑者について、「あの人も25歳やろ、すぐ事件の背景とか、いう風潮があっておかしいワ。悪いのは犯人の青年や!」と・・・。

  その通り。確かに、あんな行為をして、なんの罪もない人を巻き添えにして、命を奪った。決して許されることではない。と思いつつ、つい背景などを考えてしまう傾向というかクセのある私。

そんな私が、一昨日のブログで紹介した本「続・ほっとする禅語70」の中から、『自灯明』(釈尊)という言葉を、発見しました。これは、自分の人生行路の先を示すのは、自分自身の持つ灯り、すなわち、『自灯明』であると言うこと.


 ここから先は、自分流に解釈を加えると・・・。

  『自灯明』に対して、『法灯明』という言葉がある。これは、「仏の教えが灯火」になるということ。私が、ブログで言った「文殊の知恵」も『法灯明』なんだろう。作家の吉川英治という人が「我以外、皆、師なり」と言っている・・・。この言葉も、私以外の他人様の教えは、『法灯明』ということなのだろう。

人は、『自灯明』を確立するために、生涯、『法灯明』を学んでいく。謙虚に、感謝して、『法灯明』を学んでいく。加害の青年は、『法灯明』を学べることに感謝できず、『自灯明』も持てなかった(?)。貧しい国の子どもたちにとっては、学校へ行けて、勉強できること、大変な喜びであり、感謝であるとあるということ。


日本は、今、モノがあり過ぎて、学校があって当たり前で、他人様との関わりも減って、『法灯明』に鈍感になって、学べるコトへの感謝が薄らいで、『自灯明』を確立するための謙虚さがなくなってきている。そういう真っ只中に、大人も、子どもも住んでいる。


※ 生意気な言葉の数々、すみません。だけど、日本も、昔は、食べられるということや、学校へ行ける、今なら当たり前のことが大変な喜びでした。
  話変わりますが、歌手の松山千春さんが、急病で入院されました。不安定狭心症と診断され、すぐに緊急処置が行われたため一命を取りとめましたが、絶対安静が必要、このため7月までに予定されていた残りの公演をすべて中止して治療に専念されるということです。
  今まで、彼の歌に励まされて、彼の歌は、私にとっての『法灯明』でした。とくに、歌「君を忘れない」の歌詞は、このアドレスで、ぜひ。あの青年にも、聴かせてやりたい。
松山さん、十分療養されて、ご回復・カムバックをお祈りします。


http://music.yahoo.co.jp/shop/p/53/219971/Y010877   

 昨日の、ゆきひとさんのコメントの続きをお送りします。

      コミュニケーション能力   

  ところで、最近、よく耳にするようになったこと、「コミュニケーション能力の低下」「コミュニケーション不要論?」です。私の勤める会社でも同様に、若い社員の中に進行中?・・・。というのは、PCが、メールが発達したことによって、隣の席の人とも、直接対話するのではなく、メールでやりとりするような時代になりつつあります。怖い上司への報告、連絡、相談も直接話すのではなくメールでやりとりするだけの人も増えているようですね。

  こういう状況を憂慮して、大企業では、コミュニケーション能力をアップさせるような研修、セミナーあるいは企業目標にしているところもでてきているそうですよ(うちの会社はそこまでありませんので)。会社ライフ、組織人ライフも、なんだかへんな方向にいってしまっているように感じてしまいます。なんだか、うまくかけなくてすみません。
                    【ゆきひと】

                           

※ 漠然とではありますが感じていた不安を、ご指摘頂いて、有り難うございます。事件の背景に、人と人の間のつながりの薄さがありますよね。
  またぞろ自分の子ども時代のことを言って恐縮ですが、昭和20年代から30年代にかけて、なにか買おうとしますと、必ず、店番のおばさんやおじさん(多くは知り合い)と言葉を交わさなければ、商品を買えませんでした。商品のことについての話の合間に、世間話や人生訓みたいな話も入っていて、子どもごころに「タメになる」話も結構ありました。それが、やがて自動販売機が街角に置かれるようになって、一言も口をきかずとも商品が買えるようになり、最近では、スーパーでも店員さん(多くは、見知らぬ)に言葉を言わなくても、お金さえ出せば商品を買えるようになってきています。「これ下さい」や「有り難う」という言葉もなくても済むし、ましてや、店員さんと世間話をするなんてことは不必要・時間のムダみたいにされています。子どもたちが、そういった環境で育てば・・・。
 兄弟数も少なく、子どもたちの遊びも少なく、街の大人と話をする機会も少なく、そこへパソコンとメールです。便利になった反面、人間としての大切な何かが、失われてきている・・・。この状況を、私たちは、どう考えるか? 国はどう考えるか? 放っておいたら、日本の将来が不安。・・・私は、心配になってきました。
 そこで、ほんの一例ですが、ご提案します。・・・せめて学校や社員教育で、落語”や“漫才”や“芝居”の台本書きや練習をカリキュラムに入れたり、家庭ではお遊び感覚で、真似ごとでもいいから、落語したり漫才したらどうでしょう・・・? 「話をしよう」と、正面切って対話を持ち込んでも、なかなか、ムードが盛り上がらないと難しいと思いますから・・・。
  でも結局は、私の反省も含めて、小さい頃からの、大人の子どもへの日頃のつき合い方と向き合うことの積み重ねが、ものを言うのでしょうね。と分かったようなことを言いながら、「子育ては難しい」「人生は難解!」と、自問自答・堂々巡りの日々です。。。。。
  一個人の経験は浅くて狭く、そこから生まれるモノの見方も、浅くて狭い上に偏っていることもアル。それを補うのは、「3人寄れば、文殊の知恵」という昔からの智恵。。どうか、お互いの意見交流を・・・。大人が意見交流を積極的にするような社会であれば、子どもの様子も変わってくるとも、思ったりもします。どうか、お節介・井戸端会議の復権を! もし、青年が、“文殊の知恵”の中で育っていたら、こうした惨事を起こしていたでしょうか?
 

  

2008年06月21日

通り魔事件に思う

 友人が、秋葉原の通り魔事件についてコメントを寄せて下さいました。

         残念なのは・・・

  こんばんは。ご無沙汰しています。
秋葉原通り魔事件、あまりにも痛ましすぎますし、重すぎて、なかなか筆が進みません。何がかけるかもわかりませんが・・・・・

 私もちょうどその時間帯、新宿(普段は静岡にいるのに)に出かけていました。だから、今回は身近に感じて、背筋が寒くなる思いです。

 通り魔事件は、たまたま、偶然に、その時間に、その場に居合わせたがために、被害者になってしまう。被害者になられた方には本当にお気の毒としかいいようがありません。夢も希望もあった人生が、突然たたれてしまったわけですから。また、被害にあわれたの方々には、両親、家族、友人・・・・と関わった方々みんなを悲しませていることでしょうから、むごすぎます。被害にあわれたかたがたにご冥福をお祈りします。

  ところで、この事件に対して世間は、マスコミは理由付けをしたがっています。そして、社会(国、治安の悪さ、経済情勢、教育の歪・・・)のせいにしようとしている風潮があるように感じてしまうのは、私だけでしょうか?

  けど、そう短絡的、単純ではなく、いろんなものが絡みに絡みあって最終的に加害者にあのような行動をさせてしまったのだと思います。家族との間、高校、短大(教育者、学校の級友)との間、会社(組織、同僚)との間、社会(国家、法律、経済状況、あまい誘惑など)との間、加害者との友人との間・・・・・いろんなところで、ぐじゃぐじゃにからみあっているものと思います。残念なのは、加害者の孤独を誰一人として、感じとってやれなかったこと、思いやれなかったことです。誰彼か気づいてあげられれば、彼のことを認めてあげられる人がいたら、彼のよりどころとなるような人がいたら、こんなことは起こらなかったのではないかと、推察します(私は短絡的でしょうか)。   【ゆきひと】

                          (以下、つづきます)


※ 臨場感が伝わる記述で、恐らく、その瞬間、現場は阿鼻叫喚、そして周辺は、凍り付いたようになったのではないしょうか? 日常を切り裂く非日常の事件。しかし、その事件は、日常の積み重ねで生まれた。もちろん、加害の青年の短絡的思考による行動が事件の決定的要因ですが、それに繋がるさまざまな要因を、私たちの社会の日常のあり方を反省・点検することにより考えていくことも、同種事件の再発防止に大切なことではないでしょうか? 皆さまのご意見・ご感想をお待ちします。貴重なご意見有り難うございます。なお、先日来の記事本文の下欄の「コメント(数字)」をクリックして頂きますと、貴重なご意見・ご感想が載っています。よろしくお願いします。


※ なお、西山拓海くんの事件が風化しないことを願って、以前、「1」のつく日以外は、原則、“絵文字”を使わない旨申し上げましたが、当分は、通り魔事件も加わって“絵文字”を使うことをやめよう、と思っています。文字ばかりで、お見苦しい、と思いますが、ご容赦をお願いいたします。  

2008年06月16日

私のノスタルジア

 ここ数日、悩んで創った詩(もどき)です。エラそうに言うな! とお叱りを受けるかも知れませんが、あくまで、私の経験に基づく個人的な感懐です。少しでも、お酌み取り頂ければ、幸いです。

  私のノスタルジア
    私の社会

私の思いこみ ノスタルジア
だけど 私は訴えたい


戦後、人は働いた
廃墟の中から、生きるため生きるために働いた
子どもたちにひもじい思いをさせたくない
子どもたちは、そうした親の姿を見て育った。
自分自身が空腹なのに
子どもたちに食べさせてやりたい
人は働き 親は働き 大人は働いた

そんな人の姿を 子どもたちは見ていた
いつか親を助けたい いつか親を楽にしてやりたい
貧しい中で 食べさせてくれた大人たちに 恩返しがしたい
高校進学率も低く
高校へ行けた子は 
高校へ行けなかった中学校の同級生の思いを胸に
高校で勉強した

きのうまで子どもだった 中卒で働く同級生が
見る見る大人びてゆく
そうだ ボクもうかうかしてられんなぁ


隣で 大人への階段上る 友
勉強って何だ 人生ってなんだ
 ♪ぼろは着てても こころに~ 錦♪
「少年よ、大志を抱け」
モノはなくとも “希望”があった

青雲の志・・・そんなことを徹夜で話し合ったりもした
友数人と 狭い部屋に雑魚寝して
よいことも 悪さすることも 語り合った



昭和30年頃から始まって
1960年代に 本格的化した 高度経済成長
モノがどんどんつくられ 売られ 捨てられていった
「消費は美徳」「大きいことはイイことだ!」
かけ声に踊らされ 人はモノを捨て出した
こころも捨て出し モッタイナイは死語になっていった

しかも今、格差が「モノ豊かな世界」を切り裂いている!


所得が上がり 垣根の低かった家と家の境目が
高い塀に囲まれ出して
人と人の交流が 失われていった


孤独・孤立
ちょっと声をかけることにも 警戒する


「雨やでぇ~ 洗濯物入れや、
居やらへんのかいなぁ~ 私が入れといたろう」
「ぼん、そんなことしたら、アブナイでぇ~!」

そんな言葉が 人の口から消え
孤独 孤立 
うわべだけの“取り繕い”が氾濫する


近所の 世話好き・お節介のおばさん・おじさんの
今、仲人は絶滅危惧種
井戸端会議もなくなって
老若の交流はなくなった
子育ての助け合いも減り 生活の知恵の伝承も減り
若い親の孤立が進んだ 人の孤立が進んだ
子どもたちへの声かけも減り
子どもたちも孤立した


孤独 孤立 虚無 絶望
若者は 年寄りを敬遠し
年寄りは 自分の世界に入り込む

 
何でもあって“希望”がない
人は だけど 愛を求めてる
人は愛されて 人の中で 成長するのに・・・

日本は どうなる?
豊かな社会の 爛熟した文化
文化の粋が この国に集まったよう・・・
だけど 文化の根本は 人だろう!?
豊かさは 誰のためにある・・・?
政治への無関心をやめ 政治を“庶民の目線”に取り戻そう


助け合いの中で見られる 子どもたちの目の輝き
もう一度 お節介
もう一度 もう一度 出しゃばりおばさん・おじさん
今 この時代に もう一度 復権を


もう一度 お節介
もう一度 もう一度 出しゃばりおばさん・おじさん
今 この時代に もう一度 復権を!
そして 人の目に輝きを! 人の心に優しさを! 
      そして “不公正”への許さぬ怒りを 投票に!
 




 ~~~     ~~~     ~~~
【低炭素 勝手に協賛 キャンペ~ン!】
できるだけ自動車などを使わずに
徒歩・自転車・電車などで移動しましょう。
  

2008年06月14日

親御さんの心

 友人から、メールが届きました。

     切ない 切ない つらい

  大変な事件です。加害者の親 被害者の親いずれの親御さんの心を思うと本当に言葉がない 親とは何なのか? 誰しもこんな子供を育てたつもりはない 大事に大事に育てた子供を殺されたり反対に人殺しをするような子供になったりと やりきれない 親の責任なのか社会の所為なのか? 
  私がいえるただひとつは母親はどんな時でも子供の心の変化を見落としてはいけない たとえ成人になっている息子 娘でも助けを待っている時があるからです。 今の親は忙しすぎるのか自分の時間に振り回されて子供と向き合ってる時間が無いのか 後悔先に立たず子育ての結果は親自身が死ぬまでわからない(きくこ)


 切ない切ない事件で、光景です。犠牲になった方の親御さん・ご家族はもちろん、加害者の青年のご両親・弟さんの心情を思うと、本当に切ない。
 同年代のきくこさんとの電話で、どの親が、容疑者のご両親を責められる? 子どもと母、子どもと父、子どもと親とのすれ違いに苦しみ、いま、やっと一息ついて振り返られるようになった、と話し合いました。

 子育ては、未熟な人間が子どもを授かって、ああでもない、こうでもないと悪戦苦闘し、間違ったこともいっぱい子どもに押しつけてきた、その時点では「よかれ」と思ってしてきたことも、それが子どもを苦しめた。子どもが成人して、やっと、自分たちの子育てを振り返られる。

 私も、ずいぶん、親に反抗もし恨みもしましたが、親の背中をいっぱい見ることができた。昭和20年代から30年代の貧しい時代、親が苦労し、その姿から、何かを学べた。だけど、私たちの若い頃は、一生懸命やっていればいつかは報われる、貧しさから這い上がるために頑張っていればいつか何とかなる・・・国も、「右肩上がり」の成長の時代でした。今の若者は、生まれながらにモノがいっぱあって、ひもじい思いも経験することがなかったけれど、親の世代を超えることが大変なのじゃないか? モノのひもじさはなかったかも知れないけれど、人のつながりが希薄になって、心のひもじさはいっぱいあるんじゃないか・・・?。

 私たちの時代は、学園紛争も盛んで政治への関心も高く、だけど、今の若者は、繁栄と享楽のなかで、見かけは幸せそうだけど、鬱屈した気持ちを政治に訴えるスベも知らず(奪われて ?)
労働運動で団結することもできない不安定な雇用のなかに押し込められて・・・加害の青年への怒りとともに、やりきれないつらさと、それでもノー天気な政治の無策というか切り捨てに怒りを覚えます。外国のメディアからも、日本社会のひずみを指摘する声が、送られてきています。

 友人の「飲み助」さんは、メールで、次のように寄越してくれました。

 今回の事件は個人の問題ではなく、社会全体の問題です。そして、「勝ち組、負け組」などと煽り立てるマスコミ、ならぬマスゴミにも責任があると、私はそう思います。・・・と。


※ 若い人から、コメント頂きました。ウッヒョ~(笑)。ぜひ、コメント欄も見て下さい。感動!です。「飲み助」さんも、よく出てくるブロガーさんご夫婦も、お若い人です、ウッヒョ~(笑)。

※ 私も一応、人の父ながら、忘れてましたけど、明日は「父の日」です。その特集「父の日2008」は、Dreamさんからお借りしてきました。ご覧下さい。
http://fathersday.yahoo.co.jp/  

  知人からメールで、秋葉原の通り魔事件について、意見が送られてきました。うまく、コメント欄に貼り付けられないので、ご本人の了解を得て、この場に、原文そのまま掲載させて頂きます。           


   秋葉原の通り魔事件に思う

  いつもタイムリーな話題の提供ありがとうございます。 加害者の両親の苦衷察するに余りあります。それに彼には弟もいます。強盗殺人者を兄に持つ弟が、進学、就職、結婚の度に「殺人犯の弟」という運命が立ちはだかる過酷な運命を描いた東野圭吾の「手紙」という小説があります。最近、知人の子どもさん二人が痴漢容疑で逮捕されました。身近ににもいる加害者の家族、これからどういう人生が待っているのでしょうか。 
 話変りますが、これはまれに見る凶悪犯罪ですが、日本の治安が悪化した、青少年が凶暴化したと見るのは誤りです。「戦前の青少年犯罪」という本によると、少年の殺人件数は昭和35年の438件がピークで平成17年には73件に激減しています。東京がオリンピック候補に残ったのも治安のよいことが理由の一つになっています。治安の悪化を理由に次々と治安対策が強化されていく風潮には危惧を感じます。
・・・と。

 私(夢想花)は、秋葉原の事件について、文にすべく何度もトライしました。ですが、ことがらの重さに、筆が遅遅として進みません。上記の知人から寄せられた文も、街で出会った若い人の話も、事件の深刻さを深く心配するものでした。皆さまにお願いです。コメントをお寄せいただけないでしょうか? このような事件は、二度と起こって欲しくない、だけど事件の突きつけたものは重すぎる。二度と起こらない、起こりにくい社会を造っていくために、どう考えていけばよいのか? よろしくお願いします。
 日本では、今、年間3万人以上の人が自殺しています。個人の生き方の問題で収まらない深刻さを感じます。「死ねないから、生きてきた」という言葉は悲しすぎますし、私たちは、命を大事にしない人を特別視するだけで、次なる社会を造れるのでしょうか?



※ コメントをお求めして、注文をつけるようで申し訳ないのですが、人権上問題がある文は公開しないこともありますので、予め、ご了承をお願いします。


※ この事件と、その背景について、海外のメディアも報じています。このアドレスをクリックしてください。
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/152383/  

 昨日の昼、若いブロガーさんに、「事件のことで気が重うなって、明るいことを書けんようになった」と言いましたら、「そういう時こそ、明るい話題を」と、アドバイスして下さいました。有り難う、感謝! そこで、やや、話をジャンプして、明るくはないですが、人間社会の今昔、ようの詩(もどき)を、以前に書いて貯めておいた「下書き」欄から引っ張り出して、UPします。(実は、頭が錯綜して、文章が書けなかったのです。)

 かつて、人間は、過酷な自然と貧しさの中で助け合って進化してきた。それが、豊かになって、何かを失っている。秋葉原の事件は、あの青年だけの特異性によって起こったものでしょうか? 私たち自体が抱えている問題の《表出》ではないでしょうか?
  いつかのブログで「人間、お互いに、お節介だからこそ、進化してきたし、生きていけるのではアリマセンカ?」と書きました。お節介と協力を失った人間の社会は、どこへ行くのでしょうか?



    今 モンスターになって
     君の 大切なモノは 何?


今から何百万年も前、ヒトが地球に登場したとき
もし、ヒトが、屈強の体力を持って
その腕力で 敵を倒すことが出来たなら
      ヒトは、今ほどに「進化」しただろうか?
もし、ヒトが、逃げ足が早くて
その脚力で 敵から逃げおおすことが出来たなら
      ヒトは、今ほどに「進化」しただろうか?


もし、ヒトが 恵まれた自然環境で
食糧に恵まれ
温かい環境で過ごすことが出来たなら
  ヒトは、道具をつくることを工夫しただろうか?
   狩猟のための武器をつくっていっただろうか?
   みんなで「協力」して 
          食糧を確保しただろうか?
  ヒトは 協力するために
           意思を通わせただろうか?
    言葉をつくり 発達させてきただろうか?


か細い体 過酷な自然環境
食糧がなく 極度に貧しくて
飢えをしのぐために 集団として生き抜くために
ヒトは 「協力」して困難に立ち向かった
ヒトは 「言葉」で気持ちを通わせた



今、私たちの時代
「協力」が薄れ 「言葉」の力が失われて
モノが溢れ 食糧が捨てられて
そして ヒトとヒトの繋がりが消えてきている
                      国がある


かつて 自然の中で 無力だったヒト
あまりにも弱くて か細い存在だったヒト


だが 今 ヒトは巨大な力を手に入れ
今 地球上で 君臨するモンスター?

「協力」と「連帯」が減り 言葉が消えて
「孤独」と「孤立」が ヒトを苦しめ

「私のこと、放っといて!」「オレの勝手だろう!」
ヒトとヒトの繋がりを否定する言葉が氾濫し
「協力」よりも「自己チュー」が闊歩する


生き方を見失い
優しさを求めつつ 
信頼できない ヒトとヒトの関係に
    未来への展望を失って・・・



巨大なモンスターの 群れ
か細さを失い 繊細さを失って 
思いやりを失い 助け合いを捨てている
暴走するモンスター そして国
束の間の“栄華”に身を委ね
委ね 溺れて 見失う
自分の大切なモノを 失って
尽きる事なき 我が儘は 地球すらも破滅する



モンスター 君は どこへ行こうとするのか?
モンスター 君が 
       一番 大切にしていることは何?


  

 言葉の2つの方向というか、に直面して、筆がなかなか進みません。その内の一つ目は、思いが多く言葉があふれて,まとまりきれない話。二つ目は、言葉を失って、書けないという現実、です。

     言葉・・・2つの方向

  一つ目の話は、TVドラマ「CHANGE」の中で、深津絵里さん扮する首相主席補佐官の次の言葉です。 「朝倉総理は、“言葉”を持っておられます」・・・と。
  この言葉は、恐らく、“国民の心に届く言葉”のことだと思うのですが、本当言えば、このことを、きょうのブログで書こうかな、と思っていました。だが、思いが多く、まとまりきれないままに、時間が経過して、しかも、圧倒的な現実の事件の前に、書く手も止まりがちになって、今に至るも書ききれずにいる、朝倉総理の“言葉”についての感懐です。朝倉総理の持っている“言葉”とは、なにか?

  二つ目は、東京秋葉原での、17人殺傷事件です。青年を凶行に駆り立てたものは何か? 報道では、追い詰められた彼の絶望感“瞬間”に起こった事件の意味も分からずに人生を奪われた7人の方のこれまでの歩んでこられてきたことの一部が、伝えられます。「誰でもよかった」・・・なんという言葉!!! 
  私は、この事件とこの言葉に、言葉を失いました。報道に触れるたびに、心の淀みが増してきます。テレビでは、いろいろなコメンテーターが様々なコメントをしています。そのどれもが尤もだとも思うし、十分、語り尽くしていないようにも思えるし・・・。 人間とは、何なのでしょうか?  言葉を失って書けない“現実”への思い。


  この二つを、私の“宿題”にさせてください。
  一つ目は、近々に書こう、自分なりの思いを、と思います。
  二つ目は、不十分な思いが、一生、続くかも知れない。一生かかっても解けないかも知れない。言っても言っても言い切れない思いが、これからのブログの端々にでも出てきて、しかもそれが、“現実”の重さのごく一部を撫でることにしかならないかも知れない。すぐには答えは見つかりません。見つかったように見えても、それは一部かも知れない。歯切れの悪い言い方です。ですが、私は、分からないのです。一生の宿題かも知れない。どうすれば、命を粗末にする人の心に、言葉が、届くのか・・・?


 この事件は多くの不幸を生みました。その内の一つ、犯人の両親の記者会見がテレビで放映されていました。謝罪する両親、崩れ落ちる母親。顔には、モザイクがかかっています。モザイクが、かかっていようといまいと、ほとんど同じです。誰が、両親を、心の底から、責められる? 青年は、このシーンをどう見るのでしょうか? もし、青年が人の親になっていたら、もし、青年が誰かのお世話をする立場にいたり、経験していたら、このシーンをどう見る? 事件は起こっていたでしょうか?

※ 事件の続報です。7月8日に、新たに載せました。ぜひ、クリックしてみてください。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080707-00000968-san-soci  

QRコード
QRCODE
※カテゴリー別のRSSです。
Information
アクセスカウンタ
読者登録
メールアドレスを入力して登録する事で、このブログの新着エントリーをメールでお届けいたします。 解除は→こちら
現在の読者数 1人
プロフィール
夢想花
オーナーへメッセージ