年の背も押し詰まりました。きょうは少し趣を変えて、今年への感謝と来年への希望を祈念して、「健康と笑いの効用」について述べたいと思います。どうか、健康で楽しく、よき新年をお迎えくださいますよう・・・。文中、時々漢字の読み方を( )中に書いていますが、これもお節介な老婆心ゆえと、ご笑覧ください。
笑いの 笑う門にはラッキーカムカム ススメ
★・・・ 「笑う門には、福来る」ということわざがあります。それをやや「欧米か!」風にもじって、またルー大柴さん風に英語チャンポン日本語風に言いますと、今から20~30年ぐらい前に、柳亭痴楽(りゅうていちらく)という噺家(はなしか)さんが、“柳亭つづり方教室”という落語の枕詞(まくらことば)で「笑う門には、ラッキー カム カム」と言って、客の笑いを取っていました。これらの意味することは、笑いの多い家は、家族が健康に恵まれ、幸福が訪れるということでしょう。このことについて、以下、私なりに勉強したことをご披露して、「笑うこと・笑わせることをおススメ」したいと思います。
★・・・ ここで幸福とは何だ、ということになりますと、個人的には千差万別でしょうが、一般的には、精神的・肉体的な健康と愛に恵まれ、ある程度の物質的な豊かさがあるということでしょう。この特に健康ということについて、「笑う門には、福来る」の言わんとすること“笑いの効用”が、証明されてきています。
★・・・ というのは、「笑いが、人間の“免疫力”を高める」ということなのです。人間の体内には、NK(エヌ・ケイ~~~ナチュラル・キラー)細胞というのがもともと(ナチュラルに)50億個くらいがあって、それらが毎日、体内に発生しているガン細胞(毎日発生しているのです!)と戦って、ガン細胞を食い殺す(キラー)というのです。
★・・・ この細胞たちが、活発に働けば、人間の免疫力(抵抗力)が高まって、ガンをはじめとするさまざまな病気を自分の力で直していく「自然治癒力(ちゆりょく)」が強まっていくということのようです。
★・・・ このNK細胞は、人間が楽しく笑うと活発に働くようになります。笑う行為が、脳の前頭葉を刺激し、その指令で 間脳に「善玉ペプチド」という物質をつくらせて、その物質でNK細胞が元気になるということです。逆に、悲しみやストレスは、「悪玉ペプチド」を生んで、NK細胞の働きを弱めと言われています。
★・・・ さらに、笑う・笑わせるという行為自体と笑うことによる顔の筋肉の動きが、脳の血流をよくし、脳を活発にさせ、考えることに余裕をもたらします。
★・・・ 今、「キレる」とか暴力とか、果ては生命の抹殺や軽視といった恐ろしい人権侵害や人間の尊厳の冒涜といったことが、連日、報道されています。キレる瞬間、人の脳の活動は一時的にある部分だけ突出していて、全体として弱くなっています。そうなる前に、「笑う」ということがはさまったら、脳が活発に働いて、悲しい結末にならないのにと思います。
先日、テレビで中国のある村では、喧嘩をしそうになったら、当事者の二人が、お互いに相手に言いたいことを歌詞にして、罵る言葉の代わりにみんな歌にしてやり合う風習があることを報じていました。お互いが歌でやり合っている内に、笑えてしまって、喧嘩にならないということでした。夫婦喧嘩でも、それで収めるということでした。当事者同士が歌の応酬で笑い、そして冷静になって、この村では殴り合いなどは起きない、ということでした。
★・・・ 何か悲しい、ムカツいたことがあったら、「ニターッ」と笑ってみる、笑いの表情をつくってみる(それをつづけると血液中のNK細胞が増えます)、冗談を言ってみる、それだけで気分が変わり、元気になっていきます。深刻で気分が滅入って思い詰めるようなときにも笑う・・・一人だけの時に笑うのは、ちょっと抵抗があるかも知れませんが、「笑う門には福来る」「笑う門にはラッキーカムカム」です。
★・・・ 但し、人前で笑うときは、ある程度、TPO(時・場所・場合)は心得ましょう(怒鳴られるも知れませんから)。また、笑いの内容も他人をケナしたり、人権を侵すようなもの(これは相手の人にストレスを与え、健康損壊になりかねません)ではなく、ちょっとウィット(機知)をきかしたやや高級なものであれば、さらにグッドです。さあ、笑いの効用を活用して、ラッキーを呼び込みましょう。
以上、浅学の私が、あちこちの知識を動員して、書いた文章です。不十分な点はあると思いますが、一つのご参考にして頂ければうれしいです。よいお年をお迎えください。
笑いの 笑う門にはラッキーカムカム ススメ
★・・・ 「笑う門には、福来る」ということわざがあります。それをやや「欧米か!」風にもじって、またルー大柴さん風に英語チャンポン日本語風に言いますと、今から20~30年ぐらい前に、柳亭痴楽(りゅうていちらく)という噺家(はなしか)さんが、“柳亭つづり方教室”という落語の枕詞(まくらことば)で「笑う門には、ラッキー カム カム」と言って、客の笑いを取っていました。これらの意味することは、笑いの多い家は、家族が健康に恵まれ、幸福が訪れるということでしょう。このことについて、以下、私なりに勉強したことをご披露して、「笑うこと・笑わせることをおススメ」したいと思います。
★・・・ ここで幸福とは何だ、ということになりますと、個人的には千差万別でしょうが、一般的には、精神的・肉体的な健康と愛に恵まれ、ある程度の物質的な豊かさがあるということでしょう。この特に健康ということについて、「笑う門には、福来る」の言わんとすること“笑いの効用”が、証明されてきています。
★・・・ というのは、「笑いが、人間の“免疫力”を高める」ということなのです。人間の体内には、NK(エヌ・ケイ~~~ナチュラル・キラー)細胞というのがもともと(ナチュラルに)50億個くらいがあって、それらが毎日、体内に発生しているガン細胞(毎日発生しているのです!)と戦って、ガン細胞を食い殺す(キラー)というのです。
★・・・ この細胞たちが、活発に働けば、人間の免疫力(抵抗力)が高まって、ガンをはじめとするさまざまな病気を自分の力で直していく「自然治癒力(ちゆりょく)」が強まっていくということのようです。
★・・・ このNK細胞は、人間が楽しく笑うと活発に働くようになります。笑う行為が、脳の前頭葉を刺激し、その指令で 間脳に「善玉ペプチド」という物質をつくらせて、その物質でNK細胞が元気になるということです。逆に、悲しみやストレスは、「悪玉ペプチド」を生んで、NK細胞の働きを弱めと言われています。
★・・・ さらに、笑う・笑わせるという行為自体と笑うことによる顔の筋肉の動きが、脳の血流をよくし、脳を活発にさせ、考えることに余裕をもたらします。
★・・・ 今、「キレる」とか暴力とか、果ては生命の抹殺や軽視といった恐ろしい人権侵害や人間の尊厳の冒涜といったことが、連日、報道されています。キレる瞬間、人の脳の活動は一時的にある部分だけ突出していて、全体として弱くなっています。そうなる前に、「笑う」ということがはさまったら、脳が活発に働いて、悲しい結末にならないのにと思います。
先日、テレビで中国のある村では、喧嘩をしそうになったら、当事者の二人が、お互いに相手に言いたいことを歌詞にして、罵る言葉の代わりにみんな歌にしてやり合う風習があることを報じていました。お互いが歌でやり合っている内に、笑えてしまって、喧嘩にならないということでした。夫婦喧嘩でも、それで収めるということでした。当事者同士が歌の応酬で笑い、そして冷静になって、この村では殴り合いなどは起きない、ということでした。
★・・・ 何か悲しい、ムカツいたことがあったら、「ニターッ」と笑ってみる、笑いの表情をつくってみる(それをつづけると血液中のNK細胞が増えます)、冗談を言ってみる、それだけで気分が変わり、元気になっていきます。深刻で気分が滅入って思い詰めるようなときにも笑う・・・一人だけの時に笑うのは、ちょっと抵抗があるかも知れませんが、「笑う門には福来る」「笑う門にはラッキーカムカム」です。
★・・・ 但し、人前で笑うときは、ある程度、TPO(時・場所・場合)は心得ましょう(怒鳴られるも知れませんから)。また、笑いの内容も他人をケナしたり、人権を侵すようなもの(これは相手の人にストレスを与え、健康損壊になりかねません)ではなく、ちょっとウィット(機知)をきかしたやや高級なものであれば、さらにグッドです。さあ、笑いの効用を活用して、ラッキーを呼び込みましょう。
以上、浅学の私が、あちこちの知識を動員して、書いた文章です。不十分な点はあると思いますが、一つのご参考にして頂ければうれしいです。よいお年をお迎えください。
きょう久しぶりに、全く、久しぶりに、以前に習っていた絵の先生にお電話をした。長いご無沙汰だというのに、しかも絵も棒を折ってしまった、というのに、ご寛容に対応して頂き、有り難かった。電話をかける前は、少しドキドキ・・・でもしてよかった。絵ではなく、ピアノに熱中していることをお話ししたら、喜んでくださった。不義理、すみません。でも人生に数々の不義理はあり得ることと、例のように私は居直って(自分なりに正当化をして)、前を向く。先生、有り難う。前を向けるのも、寛容なお方のお陰だと・・・。パソコンの先生もそうだったけど、何かを極めた人は、寛容なお心の方が多いと。そして、改めて私の“狭量”を反省する。そして、下手な句を一句。
【久しぶり電話が運ぶ冬晴れ間】
【久しぶり電話が運ぶ冬晴れ間】
けさABCテレビで確か題名は「異変列島」だったと思うが、地球温暖化問題を取り上げ、次のような、地球の異変を報せていた。
① 海のサンゴが、海水の温度上昇と海の汚染のために、大量に死んで「白化」していっていること
② 海面が上昇し、太平洋の小さな島国である「ツバル」がまさに水没の危機に瀕していること
③ 世界中で気候変動が激しくなり、乾燥と集中豪雨が頻発してること。
乾燥は砂漠化を促し、中国でも家畜の放牧による草の食べ尽くしに乾燥が加わって、砂漠化が急速に進み、その砂(黄砂)が風で日本に運ばれ、しかも途中の工業地域での排ガスに含まれている硫黄酸化物や窒素酸化物を拾って、日本には有害な物質をまき散ら していること。
集中豪雨により、自然災害に弱い都市等の生活基盤を失わせる事態が頻発していること
④ 熱帯に住む蚊の生息地域が北上し、そのため、すぐ隣の台湾にも、蚊が媒介する「デング熱」の感染が近年見られるようになったこと。
等々であった。
それを克服する方策として
ア) 省資源・省エネルギーへの努力と対策、化石燃料を燃やさない新エネルギーの開発
イ) 木を植え、森林面積を増やして、二酸化炭素を吸収する
ウ) 二酸化炭素を地中や海底に埋め込む技術の開発
等が報じられていた。また、イギリスのニューカッスル市では、二酸化炭素の削減について、行政と市民があげての取り組みも報じていた。
私は、途中からこの番組を見出して、その衝撃的な内容に釘付けになってしまった。私たち人類は、ひたすら物質的な豊かさを求めて頑張ってきた。その結果として、私たちは地球から過剰に資源を取り、加工して使い、過剰にその結果物を排出して
生活している。特に、先進国にいる私たちは、地球上の誰かに贅沢三昧のツケを払わせ、なによりも次の世代の子どもたちや孫たちや子々孫々の「生きる権利」を奪おうとしている。
何ができるのか・・・どうすれば地球とうまくつきあえるのか・・・数年前のNHKスペシャルで
【豊かからず貧しからず】
をキーワードとする生き方が地球を救い人類を救う道であると主張していた。
このブログを書く私も贅沢な生活に慣れ切って、無力の淵に居るままに、「地球の危機」を叫んでいる。贅沢と無力を自覚しながらも敢えてできることはなにかとの思いから、取り上げた。「次なる世代への植民地主義」・・・私たちの贅沢のツケを子々孫々に払わせていいのか・・・!!?? 齢64の私は、自問自答し心痛めている。
① 海のサンゴが、海水の温度上昇と海の汚染のために、大量に死んで「白化」していっていること
② 海面が上昇し、太平洋の小さな島国である「ツバル」がまさに水没の危機に瀕していること
③ 世界中で気候変動が激しくなり、乾燥と集中豪雨が頻発してること。
乾燥は砂漠化を促し、中国でも家畜の放牧による草の食べ尽くしに乾燥が加わって、砂漠化が急速に進み、その砂(黄砂)が風で日本に運ばれ、しかも途中の工業地域での排ガスに含まれている硫黄酸化物や窒素酸化物を拾って、日本には有害な物質をまき散ら していること。
集中豪雨により、自然災害に弱い都市等の生活基盤を失わせる事態が頻発していること
④ 熱帯に住む蚊の生息地域が北上し、そのため、すぐ隣の台湾にも、蚊が媒介する「デング熱」の感染が近年見られるようになったこと。
等々であった。
それを克服する方策として
ア) 省資源・省エネルギーへの努力と対策、化石燃料を燃やさない新エネルギーの開発
イ) 木を植え、森林面積を増やして、二酸化炭素を吸収する
ウ) 二酸化炭素を地中や海底に埋め込む技術の開発
等が報じられていた。また、イギリスのニューカッスル市では、二酸化炭素の削減について、行政と市民があげての取り組みも報じていた。
私は、途中からこの番組を見出して、その衝撃的な内容に釘付けになってしまった。私たち人類は、ひたすら物質的な豊かさを求めて頑張ってきた。その結果として、私たちは地球から過剰に資源を取り、加工して使い、過剰にその結果物を排出して
生活している。特に、先進国にいる私たちは、地球上の誰かに贅沢三昧のツケを払わせ、なによりも次の世代の子どもたちや孫たちや子々孫々の「生きる権利」を奪おうとしている。
何ができるのか・・・どうすれば地球とうまくつきあえるのか・・・数年前のNHKスペシャルで
【豊かからず貧しからず】
をキーワードとする生き方が地球を救い人類を救う道であると主張していた。
このブログを書く私も贅沢な生活に慣れ切って、無力の淵に居るままに、「地球の危機」を叫んでいる。贅沢と無力を自覚しながらも敢えてできることはなにかとの思いから、取り上げた。「次なる世代への植民地主義」・・・私たちの贅沢のツケを子々孫々に払わせていいのか・・・!!?? 齢64の私は、自問自答し心痛めている。
話しが前後するが、1952(昭和27)年4月28日だった、と思う。小学校3年生のとき、朝礼で校長が、いつもより語気を荒げて「日本は独立・・・」どうのこうのと言っていた。私は、長い話しに立ち疲れてウンザリしていた。そのうち、生徒のひとりが後の方でよろけたようで、その時、校長はダダダッと壇上から降りてきて、その子の傍にいき、「そんなことでどうするのか!」と、大声を出していたのを、滅多にないことだったので、覚えている。
金曜日の夜は、「君の名は」のラジオ・ドラマが流れた。春樹・真知子・真知子巻き・菊田一夫の名と「忘却とは忘れ去ることなり」という冒頭のナレーションを、今も覚えている。今から思うと、当時の娯楽は少なく、流行のサイクルが長かったので、強く印象に残ったのではないだろうか。1953(昭和28)年ごろだったと思うが春日八郎の「お富さん」が大ヒットし、夏の盆踊りでその歌にのって踊った。
小学生時代、家の米びつが空で食べるものがなく朝食を食べられずに学校へ行くことも多く、昼の給食が楽しみだったから、学校を休んだらもったいなかった。だから、当時は「不登校」ということはほとんど聞かなかった。夜、寝小便をたれて、親に怒られるものだから、親に隠して小便臭い匂いで学校に行った。教室には、そういう子どもが数人にいて、「臭いから」という理由でイジメが発生するなんてことはなかった。家の内風呂もなく、お金がもったいなから風呂代が1回20~30円ほどの銭湯に行けず、数日入浴もせず、不潔で、髪の毛からフケなんてことは当たり前だった。けっこうクラスの団結は強くて、自分のクラスの子をかばって、よくクラス対抗で、言い合いや喧嘩をした。因みに、昭和40年代ころから、清潔であることが過度にもてはやされ、「フケいやいや」という石鹸会社のコマーシャルがテレビから流れるに及んで、子どもたちの清潔意識が喚起され、自分の清潔感に合わない人を排除するイジメ的なことが進行していったのではないかと思っている。過度の清潔感の喧伝の進行のなかで、「O157」に弱い日本の子どもたちの現状を見るとき、また、不潔を極度に嫌う子どものいることを考えるとき、地球の微生物との共生という視点が、もっと、子育ての中に入ってきてもよいのではないだろうか? 昔からの諺に「水清ければ魚住まず」というのがあるように・・・。(昭和20年代の様子、さらに次回につづく)
金曜日の夜は、「君の名は」のラジオ・ドラマが流れた。春樹・真知子・真知子巻き・菊田一夫の名と「忘却とは忘れ去ることなり」という冒頭のナレーションを、今も覚えている。今から思うと、当時の娯楽は少なく、流行のサイクルが長かったので、強く印象に残ったのではないだろうか。1953(昭和28)年ごろだったと思うが春日八郎の「お富さん」が大ヒットし、夏の盆踊りでその歌にのって踊った。
小学生時代、家の米びつが空で食べるものがなく朝食を食べられずに学校へ行くことも多く、昼の給食が楽しみだったから、学校を休んだらもったいなかった。だから、当時は「不登校」ということはほとんど聞かなかった。夜、寝小便をたれて、親に怒られるものだから、親に隠して小便臭い匂いで学校に行った。教室には、そういう子どもが数人にいて、「臭いから」という理由でイジメが発生するなんてことはなかった。家の内風呂もなく、お金がもったいなから風呂代が1回20~30円ほどの銭湯に行けず、数日入浴もせず、不潔で、髪の毛からフケなんてことは当たり前だった。けっこうクラスの団結は強くて、自分のクラスの子をかばって、よくクラス対抗で、言い合いや喧嘩をした。因みに、昭和40年代ころから、清潔であることが過度にもてはやされ、「フケいやいや」という石鹸会社のコマーシャルがテレビから流れるに及んで、子どもたちの清潔意識が喚起され、自分の清潔感に合わない人を排除するイジメ的なことが進行していったのではないかと思っている。過度の清潔感の喧伝の進行のなかで、「O157」に弱い日本の子どもたちの現状を見るとき、また、不潔を極度に嫌う子どものいることを考えるとき、地球の微生物との共生という視点が、もっと、子育ての中に入ってきてもよいのではないだろうか? 昔からの諺に「水清ければ魚住まず」というのがあるように・・・。(昭和20年代の様子、さらに次回につづく)
きょう昼過ぎに、仕事を終えて、我が家に帰ってきますと、我が家歴16年の飼い犬(雑種・めす・捨てられそうなことに見かねて16年前に娘がもらってきた、その娘も今はいいおばさん。当時子どもだった息子も今は自分のことが忙しくてたまに犬の頭をなでる程度、だから愛に飢えてるせいか・・・)が、私をみて、しっぽを振って、うれしいのか悲しいのか分からない風情で「クゥ~」と泣くので、思わず頭をなでて、ついでに首輪を外して、猫の額ほどの我が家の庭を散策する「自由」を与えてやりました。
と、そこへ、小一の孫が来たので、家の中に入り、カレーライスを食べさせている間に、すっかり犬のことを忘れてしまいました。
と、そこへ、妻が帰ってきて、外から素っ頓狂な声で「犬は~~~?」との疑問文。あわてて表へ出たら、いるはずの犬がいません。犬は、どうやら門扉の下をくぐって、我が家を脱出したらしい。あわてて、ご近所の人にもご協力を願って、大捜索ならぬ中ぐらいの捜索。妻の金切り声にせきたてられて、私も近所の家をさり気なく見るふりして、覗いて回る。「いない、ここにもいない。」「交通事故にあってへんか」「連れて行かれてへんか」・・・と、疑心が暗鬼する。
20分ほどたったでしょうか。裏の筋を、犬がとぼとぼと私に向かって歩いてくるではありませんか。しっぽを垂らして、とぼとぼしおしおと歩いてきました。自首するように、私の目の前で首を垂れました。この1年ほど老衰のために、見知らぬ人を吠える気力もなく、ましてや他人様に噛みつくような馬力も想像できないような状態でした。と思っていたのは、飼い主一族だけだったのでしょうか・・・? 犬は、エネルギーを振り絞って我が家をエクソダスしたのです。
だから心配は交通事故でした。事故に遭わなくてよかったな、これからは許可なく「外出」したらアカンぞ、と言い聞かせて我が家に連れて帰り、大団円し、我が家歴を継続することになりました。犬の逃避行に共感するとこもあって、ここで一句。
【老犬も 逃避行 夢求め】・・・字足らず。
ここで、教訓・・・くれぐれも、飼い犬の心に気を配りましょう。そうでないと、「熟年離別」ということになりかねません。
と、そこへ、小一の孫が来たので、家の中に入り、カレーライスを食べさせている間に、すっかり犬のことを忘れてしまいました。
と、そこへ、妻が帰ってきて、外から素っ頓狂な声で「犬は~~~?」との疑問文。あわてて表へ出たら、いるはずの犬がいません。犬は、どうやら門扉の下をくぐって、我が家を脱出したらしい。あわてて、ご近所の人にもご協力を願って、大捜索ならぬ中ぐらいの捜索。妻の金切り声にせきたてられて、私も近所の家をさり気なく見るふりして、覗いて回る。「いない、ここにもいない。」「交通事故にあってへんか」「連れて行かれてへんか」・・・と、疑心が暗鬼する。
20分ほどたったでしょうか。裏の筋を、犬がとぼとぼと私に向かって歩いてくるではありませんか。しっぽを垂らして、とぼとぼしおしおと歩いてきました。自首するように、私の目の前で首を垂れました。この1年ほど老衰のために、見知らぬ人を吠える気力もなく、ましてや他人様に噛みつくような馬力も想像できないような状態でした。と思っていたのは、飼い主一族だけだったのでしょうか・・・? 犬は、エネルギーを振り絞って我が家をエクソダスしたのです。
だから心配は交通事故でした。事故に遭わなくてよかったな、これからは許可なく「外出」したらアカンぞ、と言い聞かせて我が家に連れて帰り、大団円し、我が家歴を継続することになりました。犬の逃避行に共感するとこもあって、ここで一句。
【老犬も 逃避行 夢求め】・・・字足らず。
ここで、教訓・・・くれぐれも、飼い犬の心に気を配りましょう。そうでないと、「熟年離別」ということになりかねません。
連日、文章ばかりだと重いので、下手な詩もどきを・・・。
そんなの関係ねぇ~ ?! ??
きのう小一の孫に
「サンタさん来たか?」と聞いたら
孫曰く
「おじいちゃんらがサンタやろ」
とゲーム用具を持ってきた
分かってる 彼は 人生が分かりつつある
妙なことに感心していると
彼は 私を ゲームに誘い 指南する
一進一退 だが彼のほうが 戦況はやや有利
上機嫌 鼻歌
こちらが不利なときは 彼の歌が耳に憑く
なんやかんやで 一進一退 んっ?
サンタさん クリスマス
前は サンタさんに来てもらってた側だったけれど
今は すっかりサンタさんとして行くほうの側
それも すっかり 見抜かれて
クリスマス サンタ
いつか 響きが 変わって
サンタ クリスマス と 無関係 華やがず
その時 やおら 小島よしお節
「そんなの関係ねぇ~」
が耳につんざく
「そんなの関係ねぇ~」
だけど どこかで やっぱり
「関係ねぇ~」ことはね~
孫と どこかで
「そんなの関係ねぇ~」ことはねぇ~
「つながっているよねぇ」と思いたい 思いたがる
前は非サンタ
今サンタである私
そんなの関係ねぇ~ ?! ??
きのう小一の孫に
「サンタさん来たか?」と聞いたら
孫曰く
「おじいちゃんらがサンタやろ」
とゲーム用具を持ってきた
分かってる 彼は 人生が分かりつつある
妙なことに感心していると
彼は 私を ゲームに誘い 指南する
一進一退 だが彼のほうが 戦況はやや有利
上機嫌 鼻歌
こちらが不利なときは 彼の歌が耳に憑く
なんやかんやで 一進一退 んっ?
サンタさん クリスマス
前は サンタさんに来てもらってた側だったけれど
今は すっかりサンタさんとして行くほうの側
それも すっかり 見抜かれて
クリスマス サンタ
いつか 響きが 変わって
サンタ クリスマス と 無関係 華やがず
その時 やおら 小島よしお節
「そんなの関係ねぇ~」
が耳につんざく
「そんなの関係ねぇ~」
だけど どこかで やっぱり
「関係ねぇ~」ことはね~
孫と どこかで
「そんなの関係ねぇ~」ことはねぇ~
「つながっているよねぇ」と思いたい 思いたがる
前は非サンタ
今サンタである私
アルバイトで貯めたへそくりをはたいてパソコン購入、プロバイダーさんのご指導で、インターネットとメールを接続し直す。仕切りなおし、もっと勉強しなきゃ、決意するも、製品の品質の改良に目を白黒。
4時ごろから、春休みで暇が一杯の小一の孫と相撲とゲームをして遊ぶ。相撲は古典的だけれど、ゲームは私の子ども時代よりはるかに複雑で怪奇。孫はけっこう対応しているけれど、変化に取り残された私は結構疲れる。下の孫は、1才男児。1週間前は、立っても瞬間的だったけど、きょうは1メートルは歩いてる。その変化、風林火山ではないが「そのはやきこと風の如し」はやや大げさか・・・。
かなり抵抗しているつもりだけれど、移ろいや変化に取り残されし私。やがて、明日も遊ぶことを約束して、孫たちに「バイナラ」して娘宅を辞す。「バイナラ」は、「ばいばい」と「さようなら」の合成語・・・萩本欣一さん作。
ここで、自己満足な句を・・・
【「バイナラ」と孫合言葉冬の暮れ】
【飛んで翔んで回って息切れ冬の蝶】。
4時ごろから、春休みで暇が一杯の小一の孫と相撲とゲームをして遊ぶ。相撲は古典的だけれど、ゲームは私の子ども時代よりはるかに複雑で怪奇。孫はけっこう対応しているけれど、変化に取り残された私は結構疲れる。下の孫は、1才男児。1週間前は、立っても瞬間的だったけど、きょうは1メートルは歩いてる。その変化、風林火山ではないが「そのはやきこと風の如し」はやや大げさか・・・。
かなり抵抗しているつもりだけれど、移ろいや変化に取り残されし私。やがて、明日も遊ぶことを約束して、孫たちに「バイナラ」して娘宅を辞す。「バイナラ」は、「ばいばい」と「さようなら」の合成語・・・萩本欣一さん作。
ここで、自己満足な句を・・・
【「バイナラ」と孫合言葉冬の暮れ】
【飛んで翔んで回って息切れ冬の蝶】。
朝NHKテレビで「石原裕次郎と三枝夫人の世界」が放映されていた。これに触発されて、映画、特に彼が鮮烈にデビューして華々しく活躍した昭和30年代の映画について、ぜひ述べたくなった。
昭和30年代、私が小学校を卒業して、中学校、高校と多感な時を過ごしたとき、そこには、さまざまな映画があった。
昭和30年代に入って、石原裕次郎が登場し、彼の主演映画「嵐を呼ぶ男」に私たち中学生は熱狂した。立ち見の客が一杯の映画館で、裕ちゃんがドラムを叩きながら「おいらはドラマー、やくざなドラマー」を歌うのを見て、その格好良さにしびれて、彼の発する「イカす」という言葉を真似した。小学生が「錆びたナイフ」を歌っていた。
裕ちゃんに続くヒーローが登場し、小林旭、赤木圭一郎がそれに続いた。赤木圭一郎は撮影中の自動車事故で死亡し、中学生の私はショックを受けた。俳優の死亡事故と言えば、海の向こうでは「エデンの東」のジエイムス・ディーンも自動車事故で亡くなった。
昭和30年代、時代劇を中心に、市川雷蔵が活躍した。彼の「眠狂四郎」「大菩薩峠」は印象深く、彼の演ずる「忠臣蔵」の浅野内匠頭はその気品で絶品だった。それでいて、金閣寺放火事件を描いた「炎上」でニヒルな僧を演じた。軽妙な演技も、冷徹な演技もできて、しかも、彼が梨園の名門に生まれなかった故に歌舞伎界で冷遇され、映画界に転身して成功していたのもあって、中学生から高校生になっていた私は彼を心情的に応援した。私も社会的経済的に恵まれていないtと思っていたから、自分の境遇を雷蔵の生き方に投影させて、大の雷蔵ファンになった。さらに彼は、若くして、昭和37年私が高校を卒業する頃に、ガンで死んだことも彼の悲劇性を私の心の中で膨らませていった。
因みに、私は、今野球界ではロッテ球団を応援している。最近でこそロッテ球団ファンも増えているようだが、64歳の今まで、身近にロッテ・ファンの人に会ったことがない。にも関わらず何故ロッテ・ファンであるのか? それは、雷蔵に大きく関わっている。それは、彼が俳優として活躍していたとき、大映という映画会社に所属していたためだ。当時、映画会社「大映」は、プロ野球球団の「大映」のオーナーであった。やがて大映球団は、オ-ナーが毎日新聞社である「毎日球団」と合併して「大毎オリオンズ」になり、さらに後年「「東京オリオンズ」そして「ロッテ・オリオンズ」とオーナーが変わるとともに球団名も変えて、今日に至っているから、私は大映オリオンズの流れをひくロッテ・オリオンズファンなのである。まことに、ファン心理というものはおかしなもので、私の人生や生活に一切関係ないのに、その勝敗に一喜一憂し、優勝でもしようものなら狂喜乱舞する。だから、私は、ロッテ球団を通して、市川雷蔵を、今も思い出す。
昭和30年代は、映画全盛期で、後年にも語り継がれるスターが輩出した時期で、「座頭市」の勝新太郎は、雷蔵のライバルのような形で出てきたように覚えている。アメリカでは、女優のマリリン・モンローが活躍し、1963(昭和38)年に薬物中毒による死亡事故が報じられて。ショッックを受けた。
音楽と並んで、映画も大好きで、当時はテレビの影響も少なく、映画「忠臣蔵」は、観客が超満員で立錐の余地のない映画館で2時間ほど、私は立ちづくめて見て飽きなかった。当時の私の夢の一つが、俳優ではルックス的に無理だろうと思っていたから、「映画監督」であったほど、映画大好き少年だった。
昭和30年代、私が小学校を卒業して、中学校、高校と多感な時を過ごしたとき、そこには、さまざまな映画があった。
昭和30年代に入って、石原裕次郎が登場し、彼の主演映画「嵐を呼ぶ男」に私たち中学生は熱狂した。立ち見の客が一杯の映画館で、裕ちゃんがドラムを叩きながら「おいらはドラマー、やくざなドラマー」を歌うのを見て、その格好良さにしびれて、彼の発する「イカす」という言葉を真似した。小学生が「錆びたナイフ」を歌っていた。
裕ちゃんに続くヒーローが登場し、小林旭、赤木圭一郎がそれに続いた。赤木圭一郎は撮影中の自動車事故で死亡し、中学生の私はショックを受けた。俳優の死亡事故と言えば、海の向こうでは「エデンの東」のジエイムス・ディーンも自動車事故で亡くなった。
昭和30年代、時代劇を中心に、市川雷蔵が活躍した。彼の「眠狂四郎」「大菩薩峠」は印象深く、彼の演ずる「忠臣蔵」の浅野内匠頭はその気品で絶品だった。それでいて、金閣寺放火事件を描いた「炎上」でニヒルな僧を演じた。軽妙な演技も、冷徹な演技もできて、しかも、彼が梨園の名門に生まれなかった故に歌舞伎界で冷遇され、映画界に転身して成功していたのもあって、中学生から高校生になっていた私は彼を心情的に応援した。私も社会的経済的に恵まれていないtと思っていたから、自分の境遇を雷蔵の生き方に投影させて、大の雷蔵ファンになった。さらに彼は、若くして、昭和37年私が高校を卒業する頃に、ガンで死んだことも彼の悲劇性を私の心の中で膨らませていった。
因みに、私は、今野球界ではロッテ球団を応援している。最近でこそロッテ球団ファンも増えているようだが、64歳の今まで、身近にロッテ・ファンの人に会ったことがない。にも関わらず何故ロッテ・ファンであるのか? それは、雷蔵に大きく関わっている。それは、彼が俳優として活躍していたとき、大映という映画会社に所属していたためだ。当時、映画会社「大映」は、プロ野球球団の「大映」のオーナーであった。やがて大映球団は、オ-ナーが毎日新聞社である「毎日球団」と合併して「大毎オリオンズ」になり、さらに後年「「東京オリオンズ」そして「ロッテ・オリオンズ」とオーナーが変わるとともに球団名も変えて、今日に至っているから、私は大映オリオンズの流れをひくロッテ・オリオンズファンなのである。まことに、ファン心理というものはおかしなもので、私の人生や生活に一切関係ないのに、その勝敗に一喜一憂し、優勝でもしようものなら狂喜乱舞する。だから、私は、ロッテ球団を通して、市川雷蔵を、今も思い出す。
昭和30年代は、映画全盛期で、後年にも語り継がれるスターが輩出した時期で、「座頭市」の勝新太郎は、雷蔵のライバルのような形で出てきたように覚えている。アメリカでは、女優のマリリン・モンローが活躍し、1963(昭和38)年に薬物中毒による死亡事故が報じられて。ショッックを受けた。
音楽と並んで、映画も大好きで、当時はテレビの影響も少なく、映画「忠臣蔵」は、観客が超満員で立錐の余地のない映画館で2時間ほど、私は立ちづくめて見て飽きなかった。当時の私の夢の一つが、俳優ではルックス的に無理だろうと思っていたから、「映画監督」であったほど、映画大好き少年だった。
午前中は仕事
午後少し休んでボランティア
その後電器店でパソコンの品定め
店員さんと値段を巡って
「まけて」「イヤーそれ以上は・・・」の丁々発止、
パソコンの日進月歩について店員さんからご講演
夕食食べてパターン・キュ~
午後9時過ぎ目を覚まして
故障でパソコン内部に生じた「不具合」との格闘
やっとブログのとこまで辿り着く
パソコンの傍らで妻が
テレビ「歌舞伎の中村屋の世界」を見ている
アメリカで苦闘する勘三郎一家
中村家の親から子への代々の芝居の伝承
「ほう、こんな親子関係もあったのだ」
中村家に生涯仕えるお弟子さんのこと
古い世界における新しい歌舞伎への挑戦
歌舞伎界の400年の伝統
天気は特に昼過ぎから晴れて暖か
【人往きて思い紡いで師走往く】
さまざまに思い残して、本日もこれにてお開き
午後少し休んでボランティア
その後電器店でパソコンの品定め
店員さんと値段を巡って
「まけて」「イヤーそれ以上は・・・」の丁々発止、
パソコンの日進月歩について店員さんからご講演
夕食食べてパターン・キュ~
午後9時過ぎ目を覚まして
故障でパソコン内部に生じた「不具合」との格闘
やっとブログのとこまで辿り着く
パソコンの傍らで妻が
テレビ「歌舞伎の中村屋の世界」を見ている
アメリカで苦闘する勘三郎一家
中村家の親から子への代々の芝居の伝承
「ほう、こんな親子関係もあったのだ」
中村家に生涯仕えるお弟子さんのこと
古い世界における新しい歌舞伎への挑戦
歌舞伎界の400年の伝統
天気は特に昼過ぎから晴れて暖か
【人往きて思い紡いで師走往く】
さまざまに思い残して、本日もこれにてお開き
昨日早朝にブログを投稿してから、以後、心に残ることがいろいろあった。昨日はフジテレビ「全盲のテノール歌手新垣勉さん」のドラマ、ベッドで読んだ田村裕さんの「ホームレス中学生」、早朝の我が家の犬の様子、思わず涙ぐんだNHkテレビ「とりちとてん」、NHKテレビ「八丈島の恒ばぁの記録」、近所の楽器店でのフォークソングの会、夕方、市の福祉施設の会合でのいろいろな話、特に車いす生活をされている西村さんのはなし、夜は78歳の友との電話での会話等々、一方でパソコンの故障という「棘」が心のどこかに刺さったまま、次から次へと、私の心に押し寄せてきた。そのどれもが、スローモーションの映像のように、私の心に残っている。「棘」も含めて、新しいことの発見・・・その内容を吟味しよう、と思うまもなく、疲れがどっときて、睡魔も私に押し寄せてきた。睡魔の中で、近所に住む男児孫2人の内のお兄ちゃん(小1)が、生まれて初めて、きょうスケートをして喜んでいたと妻から聞いて、目がぱっちり。よかった、めでたい。きょうは、君の「人生記念日」!! 私にとっても、さまざまに「人生記念の日」。そして、やがてパタン・キュ~~。
わ~ピンチ!! パソコンを、時間に追われて電源を(こんなことしたらアカンけど、思わず強制的に)切ったら、パソコンがまったくの初期的状態になって、しまたのでは、とは、電話をかけて聞いたときの「プララさん」の説明。プララさんにたずねてお願いして、辛うじて、インターネットとEmailの接続は回復したが、パソコンに取り入れた情報はみな消えてしまった。せっかく昨日パソコンの勉強会に出席して、新しいことを教えてもらったのに、何タルチア!惨タルチア! パソコン音痴の、機械音痴の私の大きなミス。少しずつ、フロッピー(今や、フロッピー時代ではないらしいけど・・・。ここにもパソコン技術の進化に、取り残されている私)と私の脳に取り込んだ記憶を呼び戻すしかない。どれだけ復元できるかどうか分からないけど、私のパソコンも何とか「初期化」して身を守ってくれているかも知れないのだし、私も初期化(煩悩込みだけど)してパソコン人生、巻き直し・・・人生、どこに災難があるかわからないという、大きな教訓を得た。だが、インターネットとEmailの接続が回復しただけでも、不幸中の幸いと心得て、まきなおしていかな、と、さらにこの失敗もよき経験と、今、臍を噛んで「人生七転び八起き」と思い直し、決意している。
今まで、私にメールを送ってくださった方、ごめんなさい。あなたとの貴重なやりとりの跡を失ってしまいました。にも関わらず、虫のよいことをお願いしますが、あなたから、私にお叱りなどのメールを送ってくださったら、アドレスは復元できますので、よかったら私宛メールを送っていただいたら有難いです。よろしくお願いします。<ああ鈍くさいパソコン音痴の夢想花より>
追伸) 起動する度に、インターネットとメールを接続しなかればならなくなりました。従って、抜本的に直るまでは、頂いたメールは消えてしまいますので、上記でメ-ルを送ってくださるようお願いしましたが、抜本的に直ったことを私からお知らせするまでは、メールをお送り頂かぬようお願い申し上げます。勝手を言ってすみません。
今まで、私にメールを送ってくださった方、ごめんなさい。あなたとの貴重なやりとりの跡を失ってしまいました。にも関わらず、虫のよいことをお願いしますが、あなたから、私にお叱りなどのメールを送ってくださったら、アドレスは復元できますので、よかったら私宛メールを送っていただいたら有難いです。よろしくお願いします。<ああ鈍くさいパソコン音痴の夢想花より>
追伸) 起動する度に、インターネットとメールを接続しなかればならなくなりました。従って、抜本的に直るまでは、頂いたメールは消えてしまいますので、上記でメ-ルを送ってくださるようお願いしましたが、抜本的に直ったことを私からお知らせするまでは、メールをお送り頂かぬようお願い申し上げます。勝手を言ってすみません。
きのうNHKテレビ『もっともっと関西』で、2桁の数字のかけ算の仕方が紹介されていました。創案者は朝倉仁先生(塾経営者)。私も今まで出会ったことのない「目から鱗」の計算の仕方だったので、ぜひとも紹介したく、既にご覧になっているかも知れませんが、このブログでもご紹介します。お子さまも親御様も、共に、お楽しみになってはどうでしょうか?
理屈は こうです。
a×b = (a×2) × (b÷2)
= a×b×2÷2
= a×b
例えば
72×16= (72×2) × (16÷2)
=144× 8= (144×2) × ( 8÷2)
=288× 4= (288×2) × ( 4÷2)
=576× 2= 1152
のように、片方の数字を2倍にして、片方の数字を半分にして、掛け合わすのに暗算しやすい数字になるまで、それを繰り返して、掛け合わす暗算をするのです。
上の例は、もうひとつぱっとしませんので、別の例題をもう一つ。
50×16= 100×8 = 800
では、どうでしょうか?
それでは、もう一つ。
16×45 = 8×90= 720
ピンポーン! 大正解、 だいせいか~いです。
a×b = (a×2) × (b÷2) は当たり前といえば当たり前です。
それを実際の計算に取り入れて、簡単に暗算しやすい数字にまで持って行く柔軟さに、「ほう、納得!」と、すっかり「目から鱗」状態になってしまいました。
理屈は こうです。
a×b = (a×2) × (b÷2)
= a×b×2÷2
= a×b
例えば
72×16= (72×2) × (16÷2)
=144× 8= (144×2) × ( 8÷2)
=288× 4= (288×2) × ( 4÷2)
=576× 2= 1152
のように、片方の数字を2倍にして、片方の数字を半分にして、掛け合わすのに暗算しやすい数字になるまで、それを繰り返して、掛け合わす暗算をするのです。
上の例は、もうひとつぱっとしませんので、別の例題をもう一つ。
50×16= 100×8 = 800
では、どうでしょうか?
それでは、もう一つ。
16×45 = 8×90= 720
ピンポーン! 大正解、 だいせいか~いです。
a×b = (a×2) × (b÷2) は当たり前といえば当たり前です。
それを実際の計算に取り入れて、簡単に暗算しやすい数字にまで持って行く柔軟さに、「ほう、納得!」と、すっかり「目から鱗」状態になってしまいました。
突然、しんみりした話しをすると、私は現在64歳、人生で残された時間はいかほどかということを、折に触れ考える年頃になった。今、日本は世界でも有数の経済大国である。街には、モノがあふれ、行き交う人の服装もまばゆい。絶えず音が流れ、情報が家の中に飛び込んで、人工の光芒が夜空を刺している。空腹で苦しむ人も、滅多に見かけない。社会の様相の変貌はすさまじく、人間を置き去りにして、激変している。取り残された人間は、生き方に迷い苦しみ、まわりに助言してくれる人もいず、孤独の淵で苦しんでいる。私が子ども時代、まわりに一杯のお節介おばさんやおじさんがいた。誰かの噂話に花を咲かせて、放送局みたいにうるさい大人や、と迷惑に思ったこともあったけど、結構、お節介おばさんやおじさんが、子どもたちに注意をし、手を差し伸べてくれた。まわりの人が、お互いに、関心を持っていた。
私は、このようなことについて、どれほどのことができるか分からない。ただ、残された時間の一部でも、そういうことを語るお節介じいさんでいたいな、とも考えている。
私は1943(昭和18)年に京都市で生まれた。以後戦後日本の変貌を、子どもとして青年として壮年として高齢者として見てきた。すべてを網羅することはできない。しかし、戦後の日本の世相の変貌のようなものの一部でも、若い人たちや子どもたちにも知ってもらいたい。私は、貧しい日本と、豊かな日本の両方を見てきた。
過去を知って、現在や未来の生き方の参考にする・・・そんな思いを抱いて、このブログで、一つのテーマとして取り上げてみようと思う。いろいろ取り混ぜながら、肩の凝らないように気を使いながら、それでも戦後の日本社会の姿の変貌を、書いていきたいと思うに至った。
話しは変わるが、映画「オールウエイズ 3丁目の夕日」がヒットした。昭和30年代の日本が描かれている。今の日本で失われつつあるものへの郷愁・・・多くの人が求めてる・・・そう信じて、、基本的には私が経験したことをベースに、不定期且つ個人的好みも交えて書いていきたい。
<敗戦そして昭和20年代幼き日>
私は、1943(昭和18)年に京都市で生まれた。戦時中については、ほとんど記憶がないはずであるが、不思議なことに、ある夜、母親に抱かれていて、暗い空に飛行機の閃光が筋を引いていて、まわりの人が「B29や」と声を上げていたことを覚えている。いつ見たのか分からないが、米軍の戦闘機の「B29」という名と、暗い夜空の光りの筋を覚えている。
終戦の1945(昭和20)年には2歳、日本国憲法が施行された47年には4歳であった。
子ども時代は、腹ぺこ空腹が当たり前の毎日であった。家で飼っていたウサギが、肉として食卓に上り、それを味気なく食べた時のことを覚えている。靴は、配給制で、育ち盛りの子どもの発育に追いつかず、私の母親は、靴の先をハサミで切って、そこから私は足の指を出して歩いていた。私は、現在、足のサイズが24.5センチメートルであるが、足の小ささを思うとき、中国で昔、女性の足を小さくするために使われた「纏足」を連想する。また今も、身長の低さを思うとき、もののないひもじかった幼少の頃を思い出す。
小学校に入ったのが、1950(昭和25)年。あとから勉強してわかったのであるが、朝鮮戦争の始まった年である。私も含めて近所の子どもたちは、馬蹄形の磁石にヒモをつけて地面を這わせ、地面に散乱する釘や鉄片を拾って、ザル一杯で5円か10円で業者に買ってもらっていた。これもあとから聞いたところによると、朝鮮戦争の軍需物資に使われたとか・・・。
幼い頃は、アメリカの影が街に溢れていて、ラジオから、連日、マッカーサ元帥のことが流れていた。私は、単語として「マッカーサ元帥」という言葉を聞いていた。彼が日本を離れるとき、ラジオから、マッカーサ元帥万歳、といったような声がワーワーっと流れていた。その騒がしさを私が聞くと、父親は「マッカーサは、日本によいことをしてくれた」と言っていた。当時、彼の人気は凄かったんだろう。それに対して、ソ連については、父親は「日ソ不可侵条約を破って卑怯や」と言って決して褒めようとしなかった。アメリカの対日政策の巧妙さ(これも後から知ったのであるが)は、子どもの私にも、アメリカへの親近感や憧れを抱かせるには十分だった。進駐軍のジープに乗った米兵が、子どもたちを集めて、チョコレートやキャンディをばらまき、私たち子どもはそれに群がり、回らぬ舌で「ギブミー・チョコレート」と叫んで、菓子を拾った。夜には、広い空き地に昼間張られた白い幕にアメリカのワーナーやパラマウントの映画が上映された。それを見た子どもの私は、何とアメリカは金持ちなんだろう、行きたい、住みたい国と、憧れをいっぱい募らせていった。なお、私の幼い頃の記憶では、「進駐軍」という言い方しかなく、「占領軍」という言い方は記憶にない。
当時のことを詳しく言うのは、それを通して、当時の子どもたちの状況を知ってもらいたいためである。簡潔に言えば、終戦直後から1952(昭和27年の本土の独立ごろまでの子どもたちは、ひもじいけれど活動的ということではなかったのだろうか。この辺は、漫画「ハダシのゲン」を読んでくだされば、一層、理解してもらえよう。
ものごころつくかつかない幼い頃に、私は、母親が『河岸の柳の行きずりーに』と歌っていたのを聞いて育った。やがて、空腹を癒すためにか、四角い雑音混じりの木箱のラジオにしがみついて聞くようになった。、水泳の古橋・橋爪の活躍を聞いて幼心なりに胸を躍らせたり、笠置シヅ子や天才子ども歌手と言われていた美空ひばりの歌や広沢虎造の浪曲を聞いて真似た。虎造の「妻は夫に従いつ、夫は妻を慕いつつ・・・」だったかの浪曲をよくうなった。また、ラジオ放送で、親も身寄りも失った戦災孤児の話、確か『鐘の鳴る丘』だったと思うが、を聞いていた。昭和27年、ボクシングの白井義男が世界チャンピオンになり、その活躍は映画館でのニュース映画で見た。映画館といえば、当時、日本映画3本立て80円ぐらいで、親にせがんでお金をもらい、子どもだけで、朝一番で映画館に入って映画三本を見て、午後の3時か4時に表に出たときは目がくらくらした。昭和29年、自衛隊が発足した年だが、このころそんなことは知らず、映画が大好きで中村錦之助(後の萬屋錦之介)主演の「笛吹童子」「紅孔雀」などに熱中した。 (つづく)
私は、このようなことについて、どれほどのことができるか分からない。ただ、残された時間の一部でも、そういうことを語るお節介じいさんでいたいな、とも考えている。
私は1943(昭和18)年に京都市で生まれた。以後戦後日本の変貌を、子どもとして青年として壮年として高齢者として見てきた。すべてを網羅することはできない。しかし、戦後の日本の世相の変貌のようなものの一部でも、若い人たちや子どもたちにも知ってもらいたい。私は、貧しい日本と、豊かな日本の両方を見てきた。
過去を知って、現在や未来の生き方の参考にする・・・そんな思いを抱いて、このブログで、一つのテーマとして取り上げてみようと思う。いろいろ取り混ぜながら、肩の凝らないように気を使いながら、それでも戦後の日本社会の姿の変貌を、書いていきたいと思うに至った。
話しは変わるが、映画「オールウエイズ 3丁目の夕日」がヒットした。昭和30年代の日本が描かれている。今の日本で失われつつあるものへの郷愁・・・多くの人が求めてる・・・そう信じて、、基本的には私が経験したことをベースに、不定期且つ個人的好みも交えて書いていきたい。
<敗戦そして昭和20年代幼き日>
私は、1943(昭和18)年に京都市で生まれた。戦時中については、ほとんど記憶がないはずであるが、不思議なことに、ある夜、母親に抱かれていて、暗い空に飛行機の閃光が筋を引いていて、まわりの人が「B29や」と声を上げていたことを覚えている。いつ見たのか分からないが、米軍の戦闘機の「B29」という名と、暗い夜空の光りの筋を覚えている。
終戦の1945(昭和20)年には2歳、日本国憲法が施行された47年には4歳であった。
子ども時代は、腹ぺこ空腹が当たり前の毎日であった。家で飼っていたウサギが、肉として食卓に上り、それを味気なく食べた時のことを覚えている。靴は、配給制で、育ち盛りの子どもの発育に追いつかず、私の母親は、靴の先をハサミで切って、そこから私は足の指を出して歩いていた。私は、現在、足のサイズが24.5センチメートルであるが、足の小ささを思うとき、中国で昔、女性の足を小さくするために使われた「纏足」を連想する。また今も、身長の低さを思うとき、もののないひもじかった幼少の頃を思い出す。
小学校に入ったのが、1950(昭和25)年。あとから勉強してわかったのであるが、朝鮮戦争の始まった年である。私も含めて近所の子どもたちは、馬蹄形の磁石にヒモをつけて地面を這わせ、地面に散乱する釘や鉄片を拾って、ザル一杯で5円か10円で業者に買ってもらっていた。これもあとから聞いたところによると、朝鮮戦争の軍需物資に使われたとか・・・。
幼い頃は、アメリカの影が街に溢れていて、ラジオから、連日、マッカーサ元帥のことが流れていた。私は、単語として「マッカーサ元帥」という言葉を聞いていた。彼が日本を離れるとき、ラジオから、マッカーサ元帥万歳、といったような声がワーワーっと流れていた。その騒がしさを私が聞くと、父親は「マッカーサは、日本によいことをしてくれた」と言っていた。当時、彼の人気は凄かったんだろう。それに対して、ソ連については、父親は「日ソ不可侵条約を破って卑怯や」と言って決して褒めようとしなかった。アメリカの対日政策の巧妙さ(これも後から知ったのであるが)は、子どもの私にも、アメリカへの親近感や憧れを抱かせるには十分だった。進駐軍のジープに乗った米兵が、子どもたちを集めて、チョコレートやキャンディをばらまき、私たち子どもはそれに群がり、回らぬ舌で「ギブミー・チョコレート」と叫んで、菓子を拾った。夜には、広い空き地に昼間張られた白い幕にアメリカのワーナーやパラマウントの映画が上映された。それを見た子どもの私は、何とアメリカは金持ちなんだろう、行きたい、住みたい国と、憧れをいっぱい募らせていった。なお、私の幼い頃の記憶では、「進駐軍」という言い方しかなく、「占領軍」という言い方は記憶にない。
当時のことを詳しく言うのは、それを通して、当時の子どもたちの状況を知ってもらいたいためである。簡潔に言えば、終戦直後から1952(昭和27年の本土の独立ごろまでの子どもたちは、ひもじいけれど活動的ということではなかったのだろうか。この辺は、漫画「ハダシのゲン」を読んでくだされば、一層、理解してもらえよう。
ものごころつくかつかない幼い頃に、私は、母親が『河岸の柳の行きずりーに』と歌っていたのを聞いて育った。やがて、空腹を癒すためにか、四角い雑音混じりの木箱のラジオにしがみついて聞くようになった。、水泳の古橋・橋爪の活躍を聞いて幼心なりに胸を躍らせたり、笠置シヅ子や天才子ども歌手と言われていた美空ひばりの歌や広沢虎造の浪曲を聞いて真似た。虎造の「妻は夫に従いつ、夫は妻を慕いつつ・・・」だったかの浪曲をよくうなった。また、ラジオ放送で、親も身寄りも失った戦災孤児の話、確か『鐘の鳴る丘』だったと思うが、を聞いていた。昭和27年、ボクシングの白井義男が世界チャンピオンになり、その活躍は映画館でのニュース映画で見た。映画館といえば、当時、日本映画3本立て80円ぐらいで、親にせがんでお金をもらい、子どもだけで、朝一番で映画館に入って映画三本を見て、午後の3時か4時に表に出たときは目がくらくらした。昭和29年、自衛隊が発足した年だが、このころそんなことは知らず、映画が大好きで中村錦之助(後の萬屋錦之介)主演の「笛吹童子」「紅孔雀」などに熱中した。 (つづく)
冬なのに同窓生が暖運ぶ
今から 52年前
小学校を 卒業した仲間
今も 最近は 特に2年に一度
同窓会を持つ
今年は 秋の琵琶湖をながめつ
亡くなった友への鎮魂と
喰っちゃべりと
唄と笑いで時を過ごした
恩師も 2度目の19歳
カラオケを熱唱し
戦時下の若き日の思いを語られた
あれから一月余
今も 仲間から 冬を暖める便りが届く
冬なのに 同窓生が 暖運ぶ
日々是好日
であるように
高齢にさしかかり
実りある思秋期を歩いてる
同窓生 高齢者諸君
日々是好日


お互いに 暖と灯りを持ち寄ろう!!
今から 52年前
小学校を 卒業した仲間
今も 最近は 特に2年に一度
同窓会を持つ
今年は 秋の琵琶湖をながめつ
亡くなった友への鎮魂と
喰っちゃべりと
唄と笑いで時を過ごした
恩師も 2度目の19歳
カラオケを熱唱し
戦時下の若き日の思いを語られた
あれから一月余
今も 仲間から 冬を暖める便りが届く
冬なのに 同窓生が 暖運ぶ
日々是好日
であるように
高齢にさしかかり
実りある思秋期を歩いてる
同窓生 高齢者諸君
日々是好日



お互いに 暖と灯りを持ち寄ろう!!
私の馬脚
いつも 気むずかしくて深刻そうな おっさんの私
だけど 本当は 違うんだよネ
そうでもないんだよネ
めでたいとこ 一杯ある おっさんの私
カラオケが好きで 歌が好きで
特に 布施明や松山千春、長淵剛、
森山良子、小椋佳 が好きな私
春日八郎も三橋美智也も
元祖御三家の唄も よく歌ってた
尾崎豊も 歌えないけど心惹かれる
それに 「夢想花」の円広志
彼は 一発屋を乗り越えて
したたかに 活躍
その軽妙なトークに いつも爆笑
歌にうるさい 音楽に一言
歌は 昭和25年に 小学校へ入る前から
笠置シヅ子 や 美空ひばりを
それに 浪曲の広沢虎造を
浪曲は 浪花節とも言ったなぁ を
ピーピーガーガー雑音混じりの
木箱のラジオに しがみついて聞いていた
歌好きの子どもが 年いってなった
おっさんの私
だから音楽が好きで それが昂じて
今 生意気に ピアノに狂奔している
恥ずかしげもなく
「しんがー・そんぐ・らいたー」を
目指すとか 言っちゃって
どうせ 「らしく」しかなれないだろうから
singer song writer を
片仮名ではなく 平仮名で
書いちゃったりしたりして
いつか 歌で何かのメッセージを
若い人にも送りたい と夢想する私
昭和18年生まれ
戦後世相の“語り部”も
ええでよ、と夢想する私
これが ほんの私の一部
おいおいと 私は 正体ではなく
馬脚を現すだろう
自認 裏表つけにくい人間である自分
これが ほんの私の一部の自己紹介
お粗末 だけどやっぱり 歌が好きで
ピアノ『命』の おっさんの私
そして同時に
「ワーキングプアー」や「いじめ」
の言葉に象徴される
若者や子どもたちの“惨状”に心痛めても
自分の無力に打ちのめされる私
2007(平成19)年12月17日
いつも 気むずかしくて深刻そうな おっさんの私
だけど 本当は 違うんだよネ
そうでもないんだよネ
めでたいとこ 一杯ある おっさんの私
カラオケが好きで 歌が好きで
特に 布施明や松山千春、長淵剛、
森山良子、小椋佳 が好きな私
春日八郎も三橋美智也も
元祖御三家の唄も よく歌ってた
尾崎豊も 歌えないけど心惹かれる
それに 「夢想花」の円広志
彼は 一発屋を乗り越えて
したたかに 活躍
その軽妙なトークに いつも爆笑
歌にうるさい 音楽に一言
歌は 昭和25年に 小学校へ入る前から
笠置シヅ子 や 美空ひばりを
それに 浪曲の広沢虎造を
浪曲は 浪花節とも言ったなぁ を
ピーピーガーガー雑音混じりの
木箱のラジオに しがみついて聞いていた
歌好きの子どもが 年いってなった
おっさんの私
だから音楽が好きで それが昂じて
今 生意気に ピアノに狂奔している
恥ずかしげもなく
「しんがー・そんぐ・らいたー」を
目指すとか 言っちゃって
どうせ 「らしく」しかなれないだろうから
singer song writer を
片仮名ではなく 平仮名で
書いちゃったりしたりして
いつか 歌で何かのメッセージを
若い人にも送りたい と夢想する私
昭和18年生まれ
戦後世相の“語り部”も
ええでよ、と夢想する私
これが ほんの私の一部
おいおいと 私は 正体ではなく
馬脚を現すだろう
自認 裏表つけにくい人間である自分
これが ほんの私の一部の自己紹介
お粗末 だけどやっぱり 歌が好きで
ピアノ『命』の おっさんの私
そして同時に
「ワーキングプアー」や「いじめ」
の言葉に象徴される
若者や子どもたちの“惨状”に心痛めても
自分の無力に打ちのめされる私
2007(平成19)年12月17日
ガラスの橋脚
テレビで 大食いを競い
もてはやす番組が 流されている
タレントの ギャル曽根さんが
制限時間内に 何十人分食べたとか
早食い競争が 喧伝されている
一方で テレビ局は
飢餓に苦しむ世界の子どもたちを報道し
南北問題の矛盾を世に訴える
これを文明の爛熟というか
文化の多様性に寛容な
社会の活力 という見方もあるだろう
だけど これでいいのか
日本は 今 人類史上経験したことのない
飽食の真っ只中にいる
人はそれに酔い
ガラスの橋脚の上の橋にいることを
忘れてる
食糧自給率を低下させ
森林を破壊して動物の肉を飼い
食料を輸入して 捨てている
金儲けと 人の食への飽くなき探求
その陰で 世界各地の人たちが
飢餓に喘ぎ
多くの子どもが 発育を阻害されている
かつて 子ども時代に
空腹を一杯経験した大人たちは
食への飽くなき渇望を
バネに 働いた
そして今 日本はかつてない飽食の時代
空腹と貧しさを知っている
世代の大人たちは
まだ理解できても
豊かさと飽食しか知らない 子どもたちは
荒れた田畑 失われた森林
と共にどう生きるのか
今 日本語の「もったいない」が
世界に広まっている
今 日本では「もったいない」が
無視されている
捨てて かえりみられない食べ物
気づかれないまま捨てられる「人の心」
人は ガラスの橋脚の上の橋にいることを
忘れている
2007(平成19)年12月16日
テレビで 大食いを競い
もてはやす番組が 流されている
タレントの ギャル曽根さんが
制限時間内に 何十人分食べたとか
早食い競争が 喧伝されている
一方で テレビ局は
飢餓に苦しむ世界の子どもたちを報道し
南北問題の矛盾を世に訴える
これを文明の爛熟というか
文化の多様性に寛容な
社会の活力 という見方もあるだろう
だけど これでいいのか
日本は 今 人類史上経験したことのない
飽食の真っ只中にいる
人はそれに酔い
ガラスの橋脚の上の橋にいることを
忘れてる
食糧自給率を低下させ
森林を破壊して動物の肉を飼い
食料を輸入して 捨てている
金儲けと 人の食への飽くなき探求
その陰で 世界各地の人たちが
飢餓に喘ぎ
多くの子どもが 発育を阻害されている
かつて 子ども時代に
空腹を一杯経験した大人たちは
食への飽くなき渇望を
バネに 働いた
そして今 日本はかつてない飽食の時代
空腹と貧しさを知っている
世代の大人たちは
まだ理解できても
豊かさと飽食しか知らない 子どもたちは
荒れた田畑 失われた森林
と共にどう生きるのか
今 日本語の「もったいない」が
世界に広まっている
今 日本では「もったいない」が
無視されている
捨てて かえりみられない食べ物
気づかれないまま捨てられる「人の心」
人は ガラスの橋脚の上の橋にいることを
忘れている
2007(平成19)年12月16日
落差 暗澹
通信販売で デジカメ購入
例によって 私は数日間 箱も開けずに放置
今朝早く 箱をこわごわ開けて カメラを取り出す
部品を取り出し ブツクサぶつくさ
「ある ない あった これか これや」
説明書を 読む 「今度こそ ちゃんと読むぞ」
心に決めて 説明書に向かう
今回のは 字も適当に大きい 読みやすい
だけど 項目が多すぎる・・・高齢者にはやや辛い
箱の中に CDロムが あった
パソコンにインストールせよ と言う
インストールして大丈夫かな?
以前 パソコンに別のCDロムを
インストールして エラい目にあった
パソコンの画面が 流れるようになってしまって
パソコンが 起動しなくなってしまたのだ
恐い こわい おっかなびっくり
その時のトラウマが 今も残っている
どだい「インストール」の言葉自体に抵抗感かん
「挿入する」ということらしい
パソコンや それに関連する商品には
やたらと 英語? 外来語が氾濫カタカナ語氾濫
電池の向きはどう カメラの電池充電に約5時間
長い・・・ おっかなびっくりで 取りかかる
一つひとつが 恐れと、びっくり そして びっくら
ついでに言うと びっくれすと
「びっくり」の 比較級 最上級も 入ってくる
そう言えば 形容詞の比較級・最上級なんてもの
中学校英語の時間に シコタマ 叩き込まれたヨ
オモロイ先生だったのは あだ名「亀」の英語先生
いつも 背を丸め急ぎ足 しかめっ面で 歩いてた
どこか 妙に 愛嬌があったから
悪ガキどもが 亀先生をからかった
「ハウハウ トータス トータスよ!」と大声で囃し立て
「ハウハウ」は 「もしもし」のつもり
「トータス」は「亀」
一度 悪さが過ぎて 亀先生に
しこたま殴られたことがあったなぁ・・・
昭和30年代初め あのときの中学生には
パソコンの「パ」もなかったし、
妙に先生にチョッカイのジャブ出した
そんなこんだを思いだし 恐るおそる時にイライラ
おっかなびっくり説明書に立ち向かう
イライラだけど 平和な時が過ぎてゆく
やがて 腹がへった 充電途中で 未完成なまま
階下に降り 冷蔵庫を開けテレビのスイッチぷちん
と 昨日の散弾銃乱射事件の
犯人らしき男の自殺を報じている
暗転 落差 暗転 落差 落差 暗澹
こうして 世も 私も 朝を迎える
人生64年 今昔の隔世を 衝撃的に残して時立ちぬ
2007(平成19)年12月15日早暁
通信販売で デジカメ購入
例によって 私は数日間 箱も開けずに放置
今朝早く 箱をこわごわ開けて カメラを取り出す
部品を取り出し ブツクサぶつくさ
「ある ない あった これか これや」
説明書を 読む 「今度こそ ちゃんと読むぞ」
心に決めて 説明書に向かう
今回のは 字も適当に大きい 読みやすい
だけど 項目が多すぎる・・・高齢者にはやや辛い
箱の中に CDロムが あった
パソコンにインストールせよ と言う
インストールして大丈夫かな?
以前 パソコンに別のCDロムを
インストールして エラい目にあった
パソコンの画面が 流れるようになってしまって
パソコンが 起動しなくなってしまたのだ
恐い こわい おっかなびっくり
その時のトラウマが 今も残っている
どだい「インストール」の言葉自体に抵抗感かん
「挿入する」ということらしい
パソコンや それに関連する商品には
やたらと 英語? 外来語が氾濫カタカナ語氾濫
電池の向きはどう カメラの電池充電に約5時間
長い・・・ おっかなびっくりで 取りかかる
一つひとつが 恐れと、びっくり そして びっくら
ついでに言うと びっくれすと
「びっくり」の 比較級 最上級も 入ってくる
そう言えば 形容詞の比較級・最上級なんてもの
中学校英語の時間に シコタマ 叩き込まれたヨ
オモロイ先生だったのは あだ名「亀」の英語先生
いつも 背を丸め急ぎ足 しかめっ面で 歩いてた
どこか 妙に 愛嬌があったから
悪ガキどもが 亀先生をからかった
「ハウハウ トータス トータスよ!」と大声で囃し立て
「ハウハウ」は 「もしもし」のつもり
「トータス」は「亀」
一度 悪さが過ぎて 亀先生に
しこたま殴られたことがあったなぁ・・・
昭和30年代初め あのときの中学生には
パソコンの「パ」もなかったし、
妙に先生にチョッカイのジャブ出した
そんなこんだを思いだし 恐るおそる時にイライラ
おっかなびっくり説明書に立ち向かう
イライラだけど 平和な時が過ぎてゆく
やがて 腹がへった 充電途中で 未完成なまま
階下に降り 冷蔵庫を開けテレビのスイッチぷちん
と 昨日の散弾銃乱射事件の
犯人らしき男の自殺を報じている
暗転 落差 暗転 落差 落差 暗澹
こうして 世も 私も 朝を迎える
人生64年 今昔の隔世を 衝撃的に残して時立ちぬ
2007(平成19)年12月15日早暁
ひとつずつ ひとつずつ
ひとつずつ ひとつずつ
君の 笑顔が 私の心に刻まれて
ひとつずつ ひとつずつ
君の 泣き声が 私の心を動かせる
ことばが出たよと 拍手喝采
這えた 立った 歩けた
と毎日が 君の人生記念の日
だけど
少しの熱で おろおろし
うまく友達と遊べないことに 心痛め
と毎日が 君の幸せ祈念の日
大きくなった それがうれしくて
口が達者で それが楽しくて
だけど
やがて 君は突っ張って
親の私をシカトする
イジメられてないかと 心案じ
そんな 毎日に 心配の雲 まき起こる
君は 毎日が 未知への探検
私にとっても 未知への恐れ
喜び 不安 悲しみ 困惑
さまざまなことが 行き交って
君は 人の中で 人になっていく
そして
私も 人の中で 人になっていく
親になっていく
君は毎日が 未知への探検
そしてそれは
私にとっても 未知への恐れと発見
2007(平成19)年12月14日
ひとつずつ ひとつずつ
君の 笑顔が 私の心に刻まれて
ひとつずつ ひとつずつ
君の 泣き声が 私の心を動かせる
ことばが出たよと 拍手喝采
這えた 立った 歩けた
と毎日が 君の人生記念の日
だけど
少しの熱で おろおろし
うまく友達と遊べないことに 心痛め
と毎日が 君の幸せ祈念の日
大きくなった それがうれしくて
口が達者で それが楽しくて
だけど
やがて 君は突っ張って
親の私をシカトする
イジメられてないかと 心案じ
そんな 毎日に 心配の雲 まき起こる
君は 毎日が 未知への探検
私にとっても 未知への恐れ
喜び 不安 悲しみ 困惑
さまざまなことが 行き交って
君は 人の中で 人になっていく
そして
私も 人の中で 人になっていく
親になっていく
君は毎日が 未知への探検
そしてそれは
私にとっても 未知への恐れと発見
2007(平成19)年12月14日
夢 想
おーいおい
いつまで君は探してる?
いつまで君は求めてる?
いつまで君は夢見てる?
果てしなく夢を追い たまさかの現実に驚愕する
毎日が探検
毎日が発見
君はいつまで夢想する?
2007(平成19)年12月13日
おーいおい
いつまで君は探してる?
いつまで君は求めてる?
いつまで君は夢見てる?
果てしなく夢を追い たまさかの現実に驚愕する
毎日が探検
毎日が発見
君はいつまで夢想する?
2007(平成19)年12月13日

