逃げ出さないことの
難しさについて(その3)
社会の“こうあるべし”という意識も大事だけれど、それにも“クールな目”で、反省と点検を加えねば、“こうあるべし”意識が過剰になってくる。過剰になると、ファシズムにつながってくる危険性もある。“こうあるべし”の過剰例を挙げると、我が市の研修会における「不断の努力によって相互の人権を擁護することを誓う“人権擁護都市宣言”」の“起立・唱和”なるものにも、私は疑問を持っている。「宣言」自体の中身はよいことが書いてあるし、この宣言に至る人々の願いには、私は大いに共感している。それらのことを、研修会の中で説明するだけでも立派な研修会なのに、研修会参加者を“起立”させて“唱和”させる市当局に言いたい。多くの市民は、反発を覚えていると・・・。「ずかずかと心の中に入ってくる“踏み絵”みたい」とか「教育勅語を言わされているみたい」とかの声もある。そういうことをしていると、結果的には研修の目指すものと“逆行”させているのではないか・・・、と私は市当局に提言してきているけれど、なかなか名もなく貧しい市民というか孤老の話は聞いてくれない。「形式」も時には必要だけれど、納得のない強制または半強制(事実上の強制)は危険だ!
個人の人権と社会全体で大事にしていること(憲法では“公共の福祉”と言っているようなこと)のバランスとそれぞれの反省の上に立って、なおかつ「そう簡単には逃げ出さないぞ、向き合っていくぞ」たるものを発見していくことが大事だ、そうして初めて逃げ出さない決意を固めていくのじゃないか、ということを、さんざん理屈をこねた末に言いたかったことのようです。ジャンジャ~ン。
話は、あっちへよろよろ、こっちへたどたど行っていましたが、いろいろなことを考えさせてくれるドラマ「フルスィング」は、やはり真面目でよいドラマなのですネ。と、当時書いていたのですが、先週の土曜日は、つい寝てしまって 見られませんせん でした。ごめんちゃい。
なお、私は決して 「見れません」 とかの「ら」抜き言葉は、使いたくありません。ご参考までに・・・。これも集団ヒステリーか? いや、そうじゃないよね
。
難しさについて(その3)
社会の“こうあるべし”という意識も大事だけれど、それにも“クールな目”で、反省と点検を加えねば、“こうあるべし”意識が過剰になってくる。過剰になると、ファシズムにつながってくる危険性もある。“こうあるべし”の過剰例を挙げると、我が市の研修会における「不断の努力によって相互の人権を擁護することを誓う“人権擁護都市宣言”」の“起立・唱和”なるものにも、私は疑問を持っている。「宣言」自体の中身はよいことが書いてあるし、この宣言に至る人々の願いには、私は大いに共感している。それらのことを、研修会の中で説明するだけでも立派な研修会なのに、研修会参加者を“起立”させて“唱和”させる市当局に言いたい。多くの市民は、反発を覚えていると・・・。「ずかずかと心の中に入ってくる“踏み絵”みたい」とか「教育勅語を言わされているみたい」とかの声もある。そういうことをしていると、結果的には研修の目指すものと“逆行”させているのではないか・・・、と私は市当局に提言してきているけれど、なかなか名もなく貧しい市民というか孤老の話は聞いてくれない。「形式」も時には必要だけれど、納得のない強制または半強制(事実上の強制)は危険だ!
個人の人権と社会全体で大事にしていること(憲法では“公共の福祉”と言っているようなこと)のバランスとそれぞれの反省の上に立って、なおかつ「そう簡単には逃げ出さないぞ、向き合っていくぞ」たるものを発見していくことが大事だ、そうして初めて逃げ出さない決意を固めていくのじゃないか、ということを、さんざん理屈をこねた末に言いたかったことのようです。ジャンジャ~ン。
話は、あっちへよろよろ、こっちへたどたど行っていましたが、いろいろなことを考えさせてくれるドラマ「フルスィング」は、やはり真面目でよいドラマなのですネ。と、当時書いていたのですが、先週の土曜日は、つい寝てしまって 見られませんせん でした。ごめんちゃい。なお、私は決して 「見れません」 とかの「ら」抜き言葉は、使いたくありません。ご参考までに・・・。これも集団ヒステリーか? いや、そうじゃないよね
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