あまり“濃~い”のばかり連日だと読者の方も私も疲れるから、きょうこそはブログを休もうと思って、早めに寝てしまいましたが、真夜中に目が覚めて、何気なくテレビを観ていたら、映画監督の山崎貴さんがNHK番組「Top Runner」に出ておられました。と言うと、いかにも山崎貴さんを知っていそうですが、私は彼を知ったのはきょうが初めて、しかも、昭和30年代の日本を描いた映画「ALWAYS3丁目の夕日」を撮った監督と聞いて、しかも昭和39年生まれと知って、2度も3度もびっくりしました。番組の司会者も代わっていて、前はタイトルは片仮名書きの「トップ・ランナー」だったと記憶しているのですが、その変わり方にもややびっくり。この番組の山崎さんに触発されて、書いてみようと思った次第です。

 私版
ALWAYS 3丁目の夕日の舞台 


 昭和39(1964)年と言えば「東京オリンピック」の年。テレビはカラーテレビが大きく普及しました。東京~大阪間の新幹線ができて、日本の高度経済成長も本格化。日本の風景が大きく変わりました。私は、高校を出て働いていて19歳から20歳の青年期、恋もしていました(余計!)。当時の日本社会の活気は、大変なもので、今の中国の都会の状況と似たものであったかも知れません。

 映画「ALWAYS 3丁目の夕日」の舞台となったのは、それより数年前、私が小学生高学年から高校生にかけての頃です・・・と言いながら、私はこの映画をまだ観ていません。(観てないのに感動してすみません)。

 番組では、テレビ(白黒テレビですが・・・)の話題が出ていました。
 昭和30年代前半は、テレビは町内でも裕福な家にしかなくて、私の家には当然になくて、当時の人気番組であったドラマ「番頭はんと丁稚どん」「てなもんや三度笠」力道山大人気の「プロレス中継」は、近所の悪ガキ十数人が、テレビのある家に押しかけて、ドンドンどんどんと玄関のドアー(と言っても今風のドアーではなくて、ガラス格子の引き戸です)をドンドンどんどんドンドンと叩いて、「おばちゃん、テレビ見せて~」。・・・と、ガラスが割れるような勢いで叩きまくって、扉を開けてくれるまで叩いて、おばちゃんかおっちゃんが根負けして開けてくれて、私たち悪ガキどもが大挙してテレビの前に陣取って、きゃ~きゃ~言いながら、テレビを観ていました。当時、そうして観た番組に「判決」という法廷ドラマもあって、子どもごころなりに、社会と人間の一断面を、結果的に学習したものでした。
 以下、つづきます。  

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