2009年01月16日
目撃! 昭和30年代前・中半
昨日の続きです。基本的には自分史を辿っていますが、当時の世相もその一端は分かって頂けると思います。。。。。当時の京都(他府県も? 私の学校だけ?)の、中学生や高校生は、政治や社会のことに関心を持っていたようです。
昭和30年代前・中半
中学生時代から高校生時代にかけて
結構、政治に関心があった
このように、善きにつけ悪しきにつけ、大人の眼差しが強い地域社会の教育力や、異年令集団の子どもの遊びや喧嘩を通して、私たち子どもは「世間」とのつき合い方を学んでいった。
昭和31年、私は中学校に入学、同年「売春防止法」制定、ジエームスディーン交通事故死。当時、私は、中学校の友だちと「売春防止法」について、不謹慎なことだが「これからオレらは大人になるのに、残念や」と言ったりするような背伸びした会話をした。また、「エデンの東」の曲にしんみりした。しばらくして日活のスター赤木圭一郎も自動車事故で死に、これもショックだった。街では、銀幕のスター石原裕次郎が大人気で、彼の十八番セリフの「イカス」というのをよく使った。映画「忠臣蔵」上映の映画館は椅子席に座り切れない立ち見客でいっぱいだった。三橋美智也の「哀愁列車」が爆発的人気を呼び、やがて、三波春夫がデビユーする。昭和33年プロ野球巨人軍に長島選手入団、日本シリーズで西鉄ライオンズの大逆転優勝、「神様、仏様、稲尾様」という言葉が流行った。パ・リーグファンの私は、にわか西鉄ファンになって、稲尾投手や中西・豊田選手等の活躍を、街頭テレビを観て、興奮した。
昭和34年、私は京都市の高校へ入学。王選手巨人軍に入団。現在の天皇(当時皇太子)夫妻の結婚式と馬車によるパレード。パレードのさなか、ある青年の投石による抗議行動があって、これについても高校生の私と友だちは議論した。(なお、当時のニュース映画を見ると、実況アナは「美智子さん」と呼んでいる。近年、皇族をマスコミは「○○様」と呼ぶが、これは何を意味するのだろう?)
高校では「警察官職務執行法」の改正問題を、放課後、校内で集会があって議論した。1960(昭和35)年、日米安保条約の改定騒動、6月23日の参議院での自然承認前には連日国会周辺で大反対デモ。樺美智子さんが死に、私たち高校生も衝撃を受けた。当時、私の通っていた高校での生徒総会で、高校生が口角泡を飛ばすような勢いで、安保問題や自衛隊問題を議論した。当時、京都は長く蜷川革新府知事体制が続いていて、「15の春を泣かせない」とのスローガンの下に、小学区制・男女共学制・総合制の「高校三原則」を掲げ、民主教育の牙城と言われていた。だから私の高校も、自由で民主的な雰囲気があり、ホームルームや生徒会は生徒のものだ、といった気持を生徒は持っていた。生徒総会は、ほとんど生徒が運営し、教師の姿は、顧問以外見ることはなかった。ましてや、教師が生徒総会で、「静かにしろ!」なんて指示をするなんてことはなかった。ホームルームでも討論で1時間以上過ぎることはよくあって、『男女間に友情は成立するか』『人間の幸福とは?』といったテーマで、耳たぶを赤くして議論した。2年生のとき、学校がロング・ホームルームを「学力テスト」に使おうとした。生徒の誰かの呼びかけで、学テ・ボイコット運動をし、その時間グラウンドに集結した。そこへ3年生の一部が、「そんなことしたら、ワシらの就職活動が不利になるやんけ」と怒鳴り込んできた。安保反対デモに参加する学友もいた。当時の私の高校はそんな雰囲気だったし、高校生も自主的に活動していた。
昭和30年代前・中半
中学生時代から高校生時代にかけて
結構、政治に関心があった
このように、善きにつけ悪しきにつけ、大人の眼差しが強い地域社会の教育力や、異年令集団の子どもの遊びや喧嘩を通して、私たち子どもは「世間」とのつき合い方を学んでいった。
昭和31年、私は中学校に入学、同年「売春防止法」制定、ジエームスディーン交通事故死。当時、私は、中学校の友だちと「売春防止法」について、不謹慎なことだが「これからオレらは大人になるのに、残念や」と言ったりするような背伸びした会話をした。また、「エデンの東」の曲にしんみりした。しばらくして日活のスター赤木圭一郎も自動車事故で死に、これもショックだった。街では、銀幕のスター石原裕次郎が大人気で、彼の十八番セリフの「イカス」というのをよく使った。映画「忠臣蔵」上映の映画館は椅子席に座り切れない立ち見客でいっぱいだった。三橋美智也の「哀愁列車」が爆発的人気を呼び、やがて、三波春夫がデビユーする。昭和33年プロ野球巨人軍に長島選手入団、日本シリーズで西鉄ライオンズの大逆転優勝、「神様、仏様、稲尾様」という言葉が流行った。パ・リーグファンの私は、にわか西鉄ファンになって、稲尾投手や中西・豊田選手等の活躍を、街頭テレビを観て、興奮した。
昭和34年、私は京都市の高校へ入学。王選手巨人軍に入団。現在の天皇(当時皇太子)夫妻の結婚式と馬車によるパレード。パレードのさなか、ある青年の投石による抗議行動があって、これについても高校生の私と友だちは議論した。(なお、当時のニュース映画を見ると、実況アナは「美智子さん」と呼んでいる。近年、皇族をマスコミは「○○様」と呼ぶが、これは何を意味するのだろう?)
高校では「警察官職務執行法」の改正問題を、放課後、校内で集会があって議論した。1960(昭和35)年、日米安保条約の改定騒動、6月23日の参議院での自然承認前には連日国会周辺で大反対デモ。樺美智子さんが死に、私たち高校生も衝撃を受けた。当時、私の通っていた高校での生徒総会で、高校生が口角泡を飛ばすような勢いで、安保問題や自衛隊問題を議論した。当時、京都は長く蜷川革新府知事体制が続いていて、「15の春を泣かせない」とのスローガンの下に、小学区制・男女共学制・総合制の「高校三原則」を掲げ、民主教育の牙城と言われていた。だから私の高校も、自由で民主的な雰囲気があり、ホームルームや生徒会は生徒のものだ、といった気持を生徒は持っていた。生徒総会は、ほとんど生徒が運営し、教師の姿は、顧問以外見ることはなかった。ましてや、教師が生徒総会で、「静かにしろ!」なんて指示をするなんてことはなかった。ホームルームでも討論で1時間以上過ぎることはよくあって、『男女間に友情は成立するか』『人間の幸福とは?』といったテーマで、耳たぶを赤くして議論した。2年生のとき、学校がロング・ホームルームを「学力テスト」に使おうとした。生徒の誰かの呼びかけで、学テ・ボイコット運動をし、その時間グラウンドに集結した。そこへ3年生の一部が、「そんなことしたら、ワシらの就職活動が不利になるやんけ」と怒鳴り込んできた。安保反対デモに参加する学友もいた。当時の私の高校はそんな雰囲気だったし、高校生も自主的に活動していた。
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夢想花
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02:57
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戦後日本世相の変容
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