そんなのカンケーねぇ! (その2)
だが、こう考えている。「死ね」とか容貌をバカにする発言は、目の前に被害者がいる。
だけど、「そんなのカンケ-ねぇ!」は、たちまちには被害者がいない。というよりは、学校の先生親とかいうような目上の人の言うことを、笑いでハグラかしてしまう、生きていく上での知恵というか、したたかさが窺われて面白いし、ホッとしたりする。 なぜ?(のつづきをお送りします)
そんなのカンケーねぇ!(その2)
人間生きていく上で、すべての人のいうことを全身全霊で受け止め、過剰に適応しつづけたら、疲れてしまう。人生には、“本気で向かう”ことも大事だけど、同時に、“逃げ道”も必要。笑いでくるんで、逃げ道を用意する。“逃げ道”がなければ、“燃えつきて”しまう。
“逃げ道”をいくつか持って、適当に組み合わせて、時には、本当に真剣に受け止めて、私も成長(?)してきたもんだ、と私は、自分の人生を振り返るのデシタ。 “逃げ道”に入り込んで、別の人生の大事なコトを一杯学んできたりして・・・。
大人も、各人なりに“逃げ道”をキープしている。但し、その実行の責任は、全部自分持ちだけれど・・・。だから、「そんなのカンケーねぇ!」を乱用・乱発して逃げる子どもには、「ある程度は“愛嬌”だけれど、過ぎると、泥が自分に被ってくる自己責任だヨ 」 ということも言って聞かすことも、大人の側で準備しんならんと思うけれど・・・。一方では、愛嬌の中の“逃げ道”の大事さというか、“逃げ道”でいざというときのエネルギーを蓄える効用も認める方がいいではないでしょうか?
「そんなのカンケ-ねぇ!」は、子どもの微笑ましい“逃げ道”で、その余裕が新しいことへの芽ダビョ~ン(小島よしおさんの新しいギャグ?)、と言えなくはないかい?!?。。。。。というのが本日ならぬきのうからのの私の主張です。
まわりくどい言い方のところもありますが、要は、 「頭から自分の価値観だけで判断する前に、笑いの内容を見つめ、さまざま考えることがダイジ」 「子どもの意見も聞いてみて・・・」 ってことを言いたかったのであります。それにどうも、私は「裸一貫」「徒手空拳」で頑張っている人には、弱いようで・・・。生意気の数々、ひらにご容赦を・・・。
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