偏狭から普遍へ
妙にマジメな所があって、今風に言うと「マジッすか?」とかKYとか呆れられ叱られそうですが、「憲法記念日」に寄せて、少し、理屈と講釈を申しますので、ご寛容におつきあい下さいますようお願いします。
偏狭から普遍へ 自分自身を
解放 していきましょう
われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において名誉ある地位を占めたい・・・
まずクイズをひとつ・・・「この文は、どこに載っている文ですか?」→→→→→賞品はありませんが、答えを言いますと、これは日本国憲法の前文の中の一 部です。この文の中の
「偏狭と普遍」について特に申し上げたくて、書きました。
★・・・ 「日本国憲法!? ワーッむつかしい、堅苦しい」と敬遠する人もいます。が、じっくり読めば、国だけでなく、私たちの行動の指針となるような、貴重な考え方(理念)があちらこちらにあって、非常に参考になります。その中でも憲法前文は、私たちの生き方の指針になるようなことが、一杯詰まっています。「“偏狭”を地上から永遠に除去したい」とする考え方も、そのひとつです。
★・・・ 「偏狭」とは「かたよった狭い見方・考え方と、それによって起こされる政治的・社会的な主義主張や運動」と言えるでしょう。
かたよった狭い見方・考え方とは、広く世間で通用しないような、世界で通用しないような、正当な根拠のないジコチュウ(自己中心主義)な考え方です。例えば、ある民族は他の民族よりすぐれているとか、皮膚や目の色で優劣を決めつけたり、男性は女性より上であるべきだ、などという考え方です。「男にする」「男らしい」とか「女らしくしなさい」などという言い方も、この考え方の延長線上にあります。「男らしい、女らしい」ということよりも、まず「人間らしく」だと思うのですが・・・。
偏狭は、合理的な根拠もなく、勝手な思いこみで決めつけたりするのです。これは、大変危険なことで、こうした考え方を国や政治家が持っていきますと、戦争や差別や迫害を国がしていく、ということになりかねません。これまでの戦争もそうしたことを背景に起こされてきましたし、戦後制定された日本国憲法はそうしたことを反省して、日本の国は偏狭を地上から永遠に除去しようと国の内外に誓ったのです。そして、偏狭な考え方を基にして、専制も圧迫もしない、人の人格を無視して奴隷的に服従させたりしない、平和を維持するために努力するということをうたったのです。
★・・・ 偏狭を個人個人の生活にあてはめて考えますと、無茶な理屈で自分の意見を押し通すということになります。不合理な差別意識にとらわれて人を見ていると、結果的にまわりの人を苦しめることもあり、ひいては自分自身の人生を窮屈にします。例えば、結婚にしても、封建的な思想からくる家柄とか社会的地位で相手を選んで、相手への愛情とか優しさとかが後回しになるという“淋しい”人生になりかねません。病気したり、苦しいときに助け合うのは、愛情や優しさであって、家柄は決して“看病”してくれません。
★・・・ 偏狭の反対語は「普遍(ふへん)」です。人間は、誰でも、ともすれば自分に都合のよい自己チューな、かたよった見方をしがちです。時には、自分自身の考え方を反省して、世間や世界で通用する、まわりの人も納得する、理屈の通った(合理的)な見方を身につけていかなければ、自分自身が世間から浮いてしまう、自分だけが気づいていない“裸の王様”ということになりかねません。国も個人も“裸の王様”になって、国際社会で孤立したり、世間や家族からも相手にされなくなったら不幸です。また、最近は環境問題でも、自分の国さえよければ、自分の生活さえよければ、自分の時代さえよければ、という考え方では、地球や人類の壊滅的破滅をもたらす可能性があることが指摘されています。偏狭から普遍へ、かたよった自分自身をも苦しめかねない狭い考え方から、自分自身を“解放”して、広い大地でのびのびと・・・少し真面目に考えてみることも、味のあるゴールデンウイークかなと考えて書きました。ブログの3月1日号にも、形を変えてよく似たことを書いています。自己チューの多い昨今、同じようなことをくどくどと繰り返すお節介親父の弁を、ご寛容にお受け止め下されば有り難いです。
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