昭和18年生まれです。戦後70年、日本世相目撃史(その1)・・・
折角、ブログ発信のチャンスを頂いて居るので、
私にしか出来ない!!!
1943(昭和18)年生まれですので、
いま、話題の戦後70年・・・
戦後70年世相も、目撃してますので、自分史を兼ねて、
このブログでも、記述していきたい、と思います。
お若い方のご参考にも成ればと、
願っています。
よろしくお付きあいをお願いします。m(_ _)m
(文中、敬称略、です。)
一 赤子だった戦時中、そして、戦後の空腹少年の私・・・
1943(昭和18)年、私は、京都市内で産ぶ声を上げた。赤子だった戦時中は、ほとんど記憶がないはずなのに、不思議なことに、ある夜、赤子の私が、母親に抱かれていて、暗い空に飛行機の閃光が筋を引いていて、まわりの人が「B29や」と声を上げていたことを、何故か、覚えている。いつ見たか、聞いたか、分からないが、米軍の戦闘機の「B29」という名と、暗い夜空の光りの筋を、何故か、不思議に、覚えている。
実際に、体験、目撃したのか、それとも、戦後に見たニュース映画の映像がダブっているのか?!
私の実際の戦争時体験は、ずっと、謎のママである。
戦争時体験に比して、戦後の体験は、極めてはっきり、覚えてる。
終戦の1945(昭和20)年には2歳、日本国憲法が施行された47年には4歳だった。
2歳・4歳で、物心が付いてた上に、おマセさんだった、(と、近所のおばさん・おじさんから言われて居た)私は、おマセな口ぶりで、大人びたことを言いたがる子どもだった。
後から知ったコトであるが、はからずも、赤ん坊のときは天皇の「赤子」「臣民」だった訳である。
そんなことは知る由もなく、戦後の子ども時代は、空腹に喘ぐ、腹ぺこ状態が当たり前の毎日だった。家で飼っていたウサギが、肉として食卓に上り、それを味気なく食べた時のことは、しっかりと覚えている。我が人生で、唯一、美味しくなく、食べた食事だった!
さらに、当時の体験を言うと、靴は、配給制で、育ち盛りの子どもの発育に追いつかず、私の母親は、靴の先をハサミで切って、そこから私は足の親指を出して歩いていた。私は、現在、足のサイズが24.5cm であるが、足の小ささを思うとき、中国で昔、女性の足を小さくするために使われた「纏足」を連想する。また今も、身長の低さを思うとき、もののないひもじかった幼少の頃を思い出す。
小学校に入ったのが、1950(昭和25)年。・・・
(以後、次号以下に、続けます。)
※ 京都空襲についてのウィキペディアです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E7%A9%BA%E8%A5%B2
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