自己チューより 善隣友好(その4)
改めて 自己チュー より 普遍・善隣友好
私は、なにか迷ったときには日本国憲法を見ることにしておるのじゃが、そうそう日本国憲法は、えらく堅苦しい言葉で書いてあるが、よく読むと、国だけでなく、個人にとっても、生きていく上での“指針”になるようなことが書いてある、なかなかよい文章じゃ。その日本国憲法の前文の中に「われらは、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」と謳っている。。。。。
“偏狭”とは、偏った不合理で自分中心(自己チュー)な考え方なり、行動の仕方じゃな・・・例えば、自分の都合のために、武力や暴力を使って、相手を脅したり、屈服させたりすることとか、理屈に合わんことを言って人を差別することじゃ。人類の目指している“普遍”的価値の反対語じゃな。
その“偏狭”をやめます、と言うのが日本国憲法の誓い なのじゃ。
日本国憲法の前文の一節に「われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して、他国を無視してはならない・・・」とも書いてある。この“国家”を“個人”という言葉に置き換えると、 「私たちは、誰でも、自己チュー(自己中心主義)で他人を無視してはならない」 と言える。この憲法の考え方は、至極当然なことを言ったまでで、他の国や他人を大事にすると、結局は憲法前文にもあるように「(この考え方で行動することが)他国と対等関係に立つ(他人に尊重される)」ことにつながるのじゃよネ。
国も、個人も、自己チューは少し減らして、他国(他人)との善隣友好ということじゃね。「国際化」というのは、結局は、まわりの国(人)との「民主化」ということ ということじゃなかろうかネ。
日本国憲法は、本当に、私たち個人にとっても人生の指針みたいなことが書いてあって、私も、この年になるまで、「わがバイブル」みたいに座右の書にしてオル。このチョー古老な私は、これからもちょくちょく登場して、日本国憲法のことやいろいろなことを喋りたーいい!!!。以後、お見知りおきを・・・。ヨロピク!
※ 喋りたーいい!!!。 と言いつつ、実は、間近に趣味のイベントごとや仕事他諸々ありまして、大胆にお休みさせて頂くこともあるかも知れませんので、と言いながら残された私の人生の日数から考えて(そう直ちではないと思っていますが・・・)やや焦って、また少し寂しくて、このブログを書くかも知れませんが、大胆(?)お休みもあり得ます予告をさせて頂きますので、懲りずに覗いて頂ければうれしく存じます。私の心は「帰ろかな 帰るのよそうかナ ♪♯♭」の、北島三郎さんの唄の心境です。よろしくお願いします。
※ きょうお二人の方から、「ブログ見てるよ~」と言って頂きました。うれしいやら恥ずかしいやら、それなりに責任感も出てきて、テンションもモチベーションも上がって、「遺言のつもりで書いているヨ」と照れ隠しの言い訳したりして、大げさに言えば、人生の未知の緊張感と張りと記者魂みたいな脳回転を味わっています。
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