「逃げ出さない」ことの難しさ(その2)

夢想花

2008年02月13日 00:01

 だいぶん旧聞に属しますが、1月28日の記事の続編です。1月28日からいろいろあって、記事自体は早くから書いていたのですが、発表はきょうになってしまいました。1月28日の文と合わせて、私のつたない文を読んでくだされば・・・。 結果的に、本日も「濃厚」になってしまいました・・・。

「逃げ出さないこと」の
     難しさについて(その2)



  ここで、現実の生活に話を引き戻すと、特に、高齢になった私の実感から言うと、ストレスの高まる集団に居続けることは、相当な体の無理が来て、免疫力が低下し、病気の原因になってくる。現役の時なら、生活のためとか、職場における評価を気にしてとか、果ては出世を意識してとか、それ相当に無理をしてきたけど、退職して、それらにワンクッション置けるようになって、自分の残された人生と天秤にかけながら、毎日、考えている。だから、一層、私は(君子ではないけれど)、「君子危うきに近寄らず」とか「三十六計逃げて」身の安泰を計ることがある。だけど、逃げてばかり居たら、社会との接点がなくなり、ボケの始まりになってくる。過剰なストレスも困るけど、適当なストレスもないと、脳が働かない。

 日本社会では、集団ヒステリ-みたいな状況にすぐなるし、そこに浸かる方が集団内で生きやすい場面は結構ある。今さんざん問題になっている組織の“偽装”や“身内のかばい合い”意識や“隠蔽”体質も、そこには風通しの悪い集団ヒステリーとそれに身を委ねる“ことなかれ”主義と“保身”意識が横行しているのでないか? 

  “火中の栗”を拾ったり、集団ヒステリーにもの申すことには、かなりの勇気と反発覚悟の根性がいるし、陰口や仲間はずれに対する“鈍感力”も必要になってくる。集団ヒステリーは、よきにつけ悪しきにつけ何かをする大きなエネルギーを生むことがよくあるけれど、そこに差別や偏見や弾圧や抑圧や疎外を生む危険性もある。多くの人の苦しみも、ここにあるのではないか?  

 お互いの“違い”は“違い”と認めつつ、そうした中で何かの“共通の基盤”らしきものを作っていけたら、住みよい社会・よい集団・よい夫婦・よい家庭になるのではないかと
夢想する次第でありまする。

                        (長いと疲れますので、明日につづく)


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