通り魔事件に思う

夢想花

2008年06月21日 00:54

 友人が、秋葉原の通り魔事件についてコメントを寄せて下さいました。

         残念なのは・・・

  こんばんは。ご無沙汰しています。
秋葉原通り魔事件、あまりにも痛ましすぎますし、重すぎて、なかなか筆が進みません。何がかけるかもわかりませんが・・・・・

 私もちょうどその時間帯、新宿(普段は静岡にいるのに)に出かけていました。だから、今回は身近に感じて、背筋が寒くなる思いです。

 通り魔事件は、たまたま、偶然に、その時間に、その場に居合わせたがために、被害者になってしまう。被害者になられた方には本当にお気の毒としかいいようがありません。夢も希望もあった人生が、突然たたれてしまったわけですから。また、被害にあわれたの方々には、両親、家族、友人・・・・と関わった方々みんなを悲しませていることでしょうから、むごすぎます。被害にあわれたかたがたにご冥福をお祈りします。

  ところで、この事件に対して世間は、マスコミは理由付けをしたがっています。そして、社会(国、治安の悪さ、経済情勢、教育の歪・・・)のせいにしようとしている風潮があるように感じてしまうのは、私だけでしょうか?

  けど、そう短絡的、単純ではなく、いろんなものが絡みに絡みあって最終的に加害者にあのような行動をさせてしまったのだと思います。家族との間、高校、短大(教育者、学校の級友)との間、会社(組織、同僚)との間、社会(国家、法律、経済状況、あまい誘惑など)との間、加害者との友人との間・・・・・いろんなところで、ぐじゃぐじゃにからみあっているものと思います。残念なのは、加害者の孤独を誰一人として、感じとってやれなかったこと、思いやれなかったことです。誰彼か気づいてあげられれば、彼のことを認めてあげられる人がいたら、彼のよりどころとなるような人がいたら、こんなことは起こらなかったのではないかと、推察します(私は短絡的でしょうか)。   【ゆきひと】

                          (以下、つづきます)


※ 臨場感が伝わる記述で、恐らく、その瞬間、現場は阿鼻叫喚、そして周辺は、凍り付いたようになったのではないしょうか? 日常を切り裂く非日常の事件。しかし、その事件は、日常の積み重ねで生まれた。もちろん、加害の青年の短絡的思考による行動が事件の決定的要因ですが、それに繋がるさまざまな要因を、私たちの社会の日常のあり方を反省・点検することにより考えていくことも、同種事件の再発防止に大切なことではないでしょうか? 皆さまのご意見・ご感想をお待ちします。貴重なご意見有り難うございます。なお、先日来の記事本文の下欄の「コメント(数字)」をクリックして頂きますと、貴重なご意見・ご感想が載っています。よろしくお願いします。


※ なお、西山拓海くんの事件が風化しないことを願って、以前、「1」のつく日以外は、原則、“絵文字”を使わない旨申し上げましたが、当分は、通り魔事件も加わって“絵文字”を使うことをやめよう、と思っています。文字ばかりで、お見苦しい、と思いますが、ご容赦をお願いいたします。


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