この記事に、注目しました。
日テレニュース24 からです。
http://www.news24.jp/articles/2017/11/21/07378535.html
国土交通省が
全国の都市で
人の動きを調べた結果、
若い男性の半分が、
休日に外出していないことがわかった。
この調査は
5年に一度行われるもので、
国土交通省が2015年の調査データを詳しく分析したところ、
20代男性の休日の外出率は
51.1%となった。
若い男性の半分は、
休日に家から外出していないことになる。
また、
休日に外出する若い男性の割合は、
30年前から半減していて、
国土交通省は、
インターネットやスマートフォンが普及したことに加え、
若い男性の「車離れ」が背景にある
と分析している。
一方で、
65歳から74歳の高齢者が休日に外出する割合は、
全ての世代の中で最も高い63.3%で、
国交省の担当者は、
医療の発達もあり、元気な高齢者が多いということではないか
としている。
この記事を見て、
今の様子を、私なりに考えますと
私は、まさに、74歳元気な高齢者真っ只中、
20代の頃は、高度経済成長さなかで、
5年先の年収のめどもつき、人生設計が立てられました。
然るに
今の若い人は
今も未来も不安が深刻、
という事ではないでしょうか?!
収入の不安定さから、
物の購買も控えて、
全国の消費が増えず、
それが、
経済の悪循環を招いているのではないか・・・??!!
政治家諸氏に、
庶民が、将来の憂い無く、
日々の生活を過ごせて、
モノが溢れても、希望の無い日本に成らないよう、
切実に考えて欲しい!!!
ということを、切に願う次第です。(>_<)
日テレニュース24 からです。
http://www.news24.jp/articles/2017/11/21/07378535.html
国土交通省が
全国の都市で
人の動きを調べた結果、
若い男性の半分が、
休日に外出していないことがわかった。
この調査は
5年に一度行われるもので、
国土交通省が2015年の調査データを詳しく分析したところ、
20代男性の休日の外出率は
51.1%となった。
若い男性の半分は、
休日に家から外出していないことになる。
また、
休日に外出する若い男性の割合は、
30年前から半減していて、
国土交通省は、
インターネットやスマートフォンが普及したことに加え、
若い男性の「車離れ」が背景にある
と分析している。
一方で、
65歳から74歳の高齢者が休日に外出する割合は、
全ての世代の中で最も高い63.3%で、
国交省の担当者は、
医療の発達もあり、元気な高齢者が多いということではないか
としている。
この記事を見て、
今の様子を、私なりに考えますと
私は、まさに、74歳元気な高齢者真っ只中、
20代の頃は、高度経済成長さなかで、
5年先の年収のめどもつき、人生設計が立てられました。
然るに
今の若い人は
今も未来も不安が深刻、
という事ではないでしょうか?!
収入の不安定さから、
物の購買も控えて、
全国の消費が増えず、
それが、
経済の悪循環を招いているのではないか・・・??!!
政治家諸氏に、
庶民が、将来の憂い無く、
日々の生活を過ごせて、
モノが溢れても、希望の無い日本に成らないよう、
切実に考えて欲しい!!!
ということを、切に願う次第です。(>_<)
夕食でビヤー後の睡魔
から目覚めて
まず眼に跳び込んだ
眼前のテレビ報道スクープで、
懐かしの
三波春夫さん♪こんにちは! こんにちは!♪ の歌で始まる
1970(昭和45)年の大阪万博、
続く、オイルショック、
続いて、トイレット・ペーパー買い漁り騒ぎ
等々、報じています。
お、
田中角栄首相が、だみ声で、出て来た~~!!!
懐かしい!!!
私は、20代真っ盛り・・・
警察官から教師に成って、
高校生を引率して
大阪万博に行き、
凄い人出と、月面の石、
太陽の塔が今も鮮明です。
昭和48年
田中角栄さんは、
日本列島改造論で、
日本の高度経済成長を加速し、
当時、給与が、ウンと上がって、
吃驚もし、嬉しかったです。
この頃、独身生活とおサラバし、
以後、嫁姑の確執、
娘・息子に恵まれ・・・
の1970年代の
滑り出しでした。
あれから、45年
もう一回、若く成りてぇぇぇ~~!!!
もう一回、
若く成ったら、どんな人生歩くかな?!
そんなこんだを、思い出した
眼前のテレビ
報道スクープspでした。
http://www.fujitv.co.jp/b_hp/news50/?pagelink=rmenu_rmd_program
チョ~懐かしい! 嬉しい!
有難うございます。m(_ _)m
ですが、今の子どもたち、若者が
平成の今の世を、どう振り返るか・・・?!
出来れば、私たち熟年世代のように、
懐かしく、嬉しく、振り返られる、世で在って欲しい!!!。
と願う、老爺で御座います。(>_<)

まず眼に跳び込んだ
眼前のテレビ報道スクープで、
懐かしの
三波春夫さん♪こんにちは! こんにちは!♪ の歌で始まる
1970(昭和45)年の大阪万博、
続く、オイルショック、
続いて、トイレット・ペーパー買い漁り騒ぎ
等々、報じています。
お、
田中角栄首相が、だみ声で、出て来た~~!!!
懐かしい!!!
私は、20代真っ盛り・・・
警察官から教師に成って、
高校生を引率して
大阪万博に行き、
凄い人出と、月面の石、
太陽の塔が今も鮮明です。
昭和48年
田中角栄さんは、
日本列島改造論で、
日本の高度経済成長を加速し、
当時、給与が、ウンと上がって、
吃驚もし、嬉しかったです。
この頃、独身生活とおサラバし、
以後、嫁姑の確執、
娘・息子に恵まれ・・・
の1970年代の
滑り出しでした。
あれから、45年
もう一回、若く成りてぇぇぇ~~!!!
もう一回、
若く成ったら、どんな人生歩くかな?!
そんなこんだを、思い出した
眼前のテレビ
報道スクープspでした。
http://www.fujitv.co.jp/b_hp/news50/?pagelink=rmenu_rmd_program
チョ~懐かしい! 嬉しい!
有難うございます。m(_ _)m
ですが、今の子どもたち、若者が
平成の今の世を、どう振り返るか・・・?!
出来れば、私たち熟年世代のように、
懐かしく、嬉しく、振り返られる、世で在って欲しい!!!。
と願う、老爺で御座います。(>_<)
実は、友人が、私の家のポストに
いつも、入れといて下さる「通信紙」
ヒューマン人権ネットワーク八幡NEWS
に載っていた
作家で活動家の 雨宮処凛さんをご紹介します。
※ 人材バンクネット HP です。
http://mainichi.jp/articles/20150804/mog/00m/040/003000c
雨宮さんは、今年、33歳。
今の若い人たちが、抱えている、悩みや混迷を
勉強したくて、UP します。
40歳年下の若い人の置かれている状況・・・
私の子ども時代は、戦後の混乱と復興、
思春期・青年期は
高度経済成長期で、
5年先の見通しが見えて、
希望の持てた社会だったように思います。
今は、どうか・・・?!
雨宮処凛さんの思いを読んで、
今の日本社会の問題点を、学んで行きたいです。m(_ _)m
失われた20年インタビュー
作家・雨宮処凛さん・・・
格差が、同じ日本で言葉が通じないくらい広がった
2015年8月4日
作家の雨宮処凛さん=東京都千代田区で2015年7月16日、内藤絵美撮影
フリーターとして働いた苦しい経験から非正規労働の救いのない状況、貧困を訴え続けている作家の雨宮処凛さん。「同じ日本に住んでいて言葉が通じないぐらいに格差が広がってきている。生活意識も何もかも全部違って、格差の上位の人と下の人たちで、一つも共感できるところがないふうになっている。そういう社会ってちょっと怖い」と話す。【聞き手・尾村洋介/デジタル報道センター】
【徹底総括】失われた20年 変容する日本の雇用はどこへ .
<失われた20年>ジャーナリスト小林美希さんインタビュー「非正規を全体に広げたのは大きな誤りだった」 .
<失われた20年>大田弘子・元経済担当相インタビュー「政治がメッセージ作れず、遠のいた構造改革」 .
<失われた20年>藤井裕久・元財務相インタビュー「恵まれない人に目を向けるのが政治の責任」 .
<座談会>失われた20年に学生たちは何を思う? .
−−雨宮さんがフリーターになったいきさつを教えてください。
雨宮さん 美大に進学したくて1993年に東京に出てきて、美大専門の予備校に行きました。バブル崩壊は何となく知ってたけど、東京に出た時はまだジュリアナ・ブームのような感じで、すごいバブルっぽい雰囲気がありました。94年に進学を諦めたんですが、その時に「就職氷河期」といわれていて、どうしたら就職できるかわからないし、まあアルバイトを始めようと思いました。実際に始めると、時給はどんどん下がっていって、バイト先でも「すごく悪い時にフリーターになったね」って言われましたね。
−−当面の仕事のような意識だったのでしょうか。
雨宮さん 最初はそんな感じでしたけど、始めて半年ぐらいたったら、もう、これ絶対逃れられないんだなっていうのに気づきましたね。95年ぐらいの時、自分の周りの友達と、「うちらは親が死んだらホームレスだよね」「野垂れ死にだよね」ということは冗談交じりに話してたんです。アルバイトだから風邪で一回休んだだけで家賃を滞納してしまったり、ガスや電気が止まったりするので、そのたびに親に電話し、泣きついてお金を借りていましたので。もう正社員にはほぼなれないし、なり方もわからないし。綱渡りの生活をしていた。世の中では自由でいたくてやっているフリーターというイメージがすごく強かったけど、自分たちはまったく自由だと思わなかったですね。でも、上の世代からは甘えてだらしがなくて怠けてるって言われるので、私は甘えているからこういう生活なんだろう、何かが自分に足りないからこうなってるんだって思ってました。社会が悪いとは一切思わなかったです。
−−すれすれの生活ですね。
雨宮さん バイトもしょっちゅうクビになるんです。本当は違法な解雇だったりするんですけど、当時は人格否定されたように思っていました。単純な仕事をクビになると結構きついんです。本当に誰にもできる、クソつまらないような仕事でさえ必要とされないというのは、一番底辺から蹴り落とされるようなところがありました。
−−何かよりどころはあったのでしょうか?
雨宮さん 私は一時期、右翼団体に入っていました。飲食店で働いていると、日本人のフリーターに比べて韓国人のほうが時給は安いのに働き者だから取り換えたいとか、そういうことを言われるんですよ。「自分は日本の底辺にいて、外国人労働者とまったく変わらない。もし外国人労働者と自分を区別するものがあるなら、それって日本人であることしかない」みたいな、過剰に日本人であるってことにすがっていきました。学生時代にバブルだったので、ものすごく受験勉強が厳しくて、受験戦争で傷つけられても、すべて頑張れば報われるという戦後日本の一番大切にしていた「神話」みたいなものを信じてきた。けれども、自分が社会に出たころ、「バブルが崩壊したから今までのことは全部うそになりました」と言われた気がして、すごくびっくりした。大人とか学校から教わってきたことが、たかが経済によってうそになるんだ、みたいな。それで後で思うんですが、天皇制はバブルで崩れなかったので、経済の停滞とかで崩れない揺るぎない価値観が欲しいという気持ちがありました。フリーターとして東京で1人暮らしをしていると、職場がなかったり、職場があってもしょっちゅうクビになったりするので、そこに帰属意識が持てないし、職場が変わるので友達もできない。学校にいけない、企業社会にも入れない、もちろん地域社会もない、どこにも居場所がなくて。そうなると、もう一気に国家しか居場所がないような感覚がありました。教育にうそをつかれたっていう被害者意識があったので、学校で教えてくれない靖国史観的なものが、自分の中にストンと入ってきた。私が入っていた右翼団体には同じような人が入っていました。
−−その団体が、当時の非常に不安定な状況を支えてくれることはあったんでしょうか?
雨宮さん 一時的にはありました。私を唯一必要としてくれる居場所でしたが、自分たちの苦しい現実から目をそらすために、アメリカがどうとか、そんな大きな話をしていた。自分たちの生活を何とかしようとか、自分たちの労働や生活の状況を問題にするということは一切なかったですね。逆に言うと、自分たちは日本人で恵まれているんだということを再確認し合う会話がずーっと続くというような、そんな感じでした。
−−今から考えると、どういうことだったんでしょう?
雨宮さん お前は悪くないよって誰かに言ってほしかったんですね。右翼の大人は、今の世の中で若者が鬱屈して生きづらいのは、日本国憲法が押し付け憲法だから悪い、アメリカと戦後民主主義が悪いと説明するんですが、その意味がわからなくても、自分が悪いと思わなくていいというところで自分の生きづらさをごまかすことができた。それではまりました。
−−右翼をやめたのはどうしてですか。
雨宮さん 私、そのころ総理大臣の名前も知らないくらいの大ばかだったんですけど、右翼の人が時事問題から何から教えてくれました。でも、ある程度物事がわかってきて自分の頭で考えるようになったら、私は全然、右翼じゃないな、右翼の人の言っていることは自分の考えとは違うなと思うようになり、やめました。
−−雨宮さんが「プレカリアート」(不安定な労働者)という問題に取り組み始めたのはいつごろからですか?
雨宮さん 2006年ごろですね。00年に脱フリーターして文筆業になって、不安定なプレカリアートという言葉をたまたまネットで見つけて引っかかるものを感じて、メーデーの集会に行った。そこで、新自由主義と生きづらさや自殺の問題の関係とか、日本の労働政策がどれほど変わってきたかというのを初めて知ったんですね。それまで、自分の周りの人たちがずいぶん自殺していたんですが、その背景には、個人の問題じゃなくて、何か構造的な問題、社会が関わっているんじゃないかとずっと考えていたときだったので、すっと理解できた。その十数年前からの労働政策や新自由主義で格差が広がり、普通に生き、普通に働くってことが特権階級にしか許されなくなったというような状況がある。自己責任などと言われて働けない自分を責めて、「すみません」って遺書とかで謝りながら死んでいった人もいます。どんどん労働市場が過酷になって、ちょっと不器用な人たちの居場所がなくなり、こんな自分が生きてちゃいけないと思って死んでいくような、そういうことがあった。集会で話を聞いて、その人たちのせいで死んだんじゃなく、人を生きさせないようなシステムがもう作られてたんだなと思った。「原因がやっとわかった。ここに敵がいたのか」みたいな感じでした。それをなくさないと私たちの生きづらさは絶対になくならないと思うと、猛然と腹が立った。
−−敵といってもシステムですか。
雨宮さん 当時は小泉政権でした。小泉さんは敵としてはある意味完璧というか、自己責任という言葉もそうですし、既得権益である正社員層からごっそり盗んで、非正規の人が何かおこぼれがくるんじゃないかと錯覚させるようなやり方が巧みだった。小泉さん個人というよりは、小泉さんが進めている労働法制の規制緩和などの政策が自分たちを追い詰めている。本当をいえば、それ以前からの政策で、派遣法ができたときぐらいから自民党の政治が進めてきた方向が、若者の貧困を個人の問題にして企業の利益を最大化していく。そこにみんな気づいて怒りだしたんです。
−−経済の停滞が始まって、企業は非正規を採用してコストを低くしました。それはどのように見えていましたか。
雨宮さん プレカリアートの問題を知ってからは、やっぱり企業は自分たちの利益のために人件費の削減をやっていこうとしているんだと、びっくりしました。日本の企業を誇りに思っているところがあったのに、名だたる大企業が非正規を使い捨てにしたために、派遣労働を経由してホームレスになっている人たちが山ほど生まれた。当時は景気が良いと言われていたけれど、自分たちにはその恩恵はないし、すごく苦しい人が増えているし、大企業の派遣で働きながらも月収10万円ぐらいの人もいた。まったく自分たちが思っていたのとは違う労働世界が広がっていて、その人たちはもう一生はい上がれないようなシステムになっちゃっている。それが始まったのがちょうど私たちの世代くらいからなんです。06年に私は31歳でした。同世代のフリーターは30代を超えて、仕事がなくなり始めてましたね。30の壁を超えられないとか、日本には30歳を超えたフリーターの行き場がないということにも気づいた。
−−企業の言い分についてはどう思いますか。
雨宮さん 結局、グローバル競争を勝ち抜いていくためには人件費を安くして当然じゃないか。一貫してそれです。企業は営利活動を目的としているので、企業を責めてもしょうがない。そこは政治がある程度歯止めをかけないと。営利活動が行き過ぎない雇用形態だとか、あっさりホームレス化しないような生活ができる賃金を払うという法規制は、どこの国でもやっている。日本は働いた賃金だけで生きていけっていうかなりの自己責任社会であるうえに、そこを不安定化、低賃金化されると、働く人に不利にできているので、みんなが不安定になってしまう。雇用保険も失業者の7割以上が受けていない上に住宅政策もないので、失業したらホームレスになっちゃう。
−−80年代から雇用の流動化が進んできましたが、不安定になる人を支える手立てをあんまり考えてこなかったんですね。
雨宮さん そうです。求職者への支援制度とかセーフティーネット的なものがやっとできたのは派遣村以降で、それもあまり使い勝手がいいとはいえないんです。本当は86年に派遣法ができたぐらいからやっておかないといけなかった。00年代に時限爆弾が爆発するように問題化した時には、まだ何もなかった。
−−プレカリアートの人たちに日本が豊かだという感覚は?
雨宮さん まったくないんじゃないですか。90年代は、自分たちが集まって話すときは常にうっすらと「豊かだけど生きづらい」と意識していました。それが00年代に入ると「生きづらいうえに貧乏、カネがない」というのを前提に語られるようになった。だから、一億総中流的なものって、言葉としては05年ぐらいまで生きていた気がします。90年代も自分たちは貧困ライン以下の生活をしていたのに、日本は経済大国という全体の幻想の中で、本当に気づくのが遅れてしまった。当事者は、社会に出たことがないから気づかない。あの時、誰か一人でも、気づいてくれたらと思います。今でこそ、若者の貧困が注目され、非正規の問題に取り組んでくれる人は増えましたけれどね。メディアに問題として発見されたから、認識が改まったってことですよね。
−−今現在の状況はどう見ていますか。
雨宮さん どんどん悪くなっていると思いますね。この前の国民生活基礎調査で、生活が苦しいという人が62・4%と過去最多でした。だから、アベノミクスって何なの、ってことです。年収200万円以下の人が増え、平均年収も下がっています。生活保護受給層は200万人をずっと突破しています。
−−リーマン・ショックの時、緩やかに回復していた景気が急速に悪化して、「派遣切り」などが表面化しました。こうしたことがまた起きる際の備えには何が必要ですか。
雨宮さん 自衛する方法としては制度を知っておくことですかね。労働組合が関われば、寮を追い出されないようにする交渉ができるので、フリーターでも入れる組合を知っておけばいい。あとは、最低限の生活保護に関する知識とか、住宅手当や求職者の支援制度もあります。使えるものは結構あるんですが、それがまったく周知されてない。日本ではそういう生きるか死ぬかにかかわる情報が全然知られてない。
−−どこを変えればいいのでしょうか?
雨宮さん 最低賃金を上げるとか、非正規にいろんな保障をつけるとか、過労死しない労働時間規制とか、そういう個別の小さな政策でできることってちゃんとあります。でも、日本社会がこの格差に対してまひしている感じがあるように思えるんです。最初はみんなすごいショックを受けて聞いてくれたんですが、今は誰も驚かないし、そういう社会だからしょうがないよね、それがグローバリズムに対応する先進国の宿命でしょう、とでもいうようなものを感じるんです。同じ日本に住んでいて言葉が通じないぐらいに格差が広がっていて、生活意識も何もかも全部違って、格差の上位の人と下の人たちで、一つも共感できるところがないふうになっている。そういう社会ってちょっと怖い。そういう相手を助けようとは誰も思わないだろうし、話を聞こうともしない。言葉も通じない怠け者は自己責任だと思ったら、社会保障の分配の対象にするのにも反対すると思うんですね。そういうふうになってきている感じがする。
−−これから先の展望はどうでしょうか?
雨宮さん 自分たちの世代は自分を「絶滅危惧種」って呼ぶようになってきています。結婚して子供を残せない、種を残せないから、そのまま絶滅していくだけの運命という意味です。今住んでいる6畳一間のアパートとかにみんな居続ける。フリーターとか非正規で働いている人たちはその家賃も払えなくなってくると思う。川崎市で起きた簡易宿泊所の火事では、あれが自分たちの未来の姿じゃないかというか、ああいうところで自分たちの世代がどんどん孤独死したり、火事で死んだり、そういう場所に行きつくしかないんじゃないかとすごく感じました。
−−5年先、10年先にやっていきたいことは何ですか。
雨宮さん 自分の世代のこの問題が、何か運動とかすれば解決とか決着というか、どこかに着地するのかと思っていたんですね。雇用があまりにも流動化したことが原因だから、セーフティーネットが必要だ、彼らが悪いわけじゃないんだという認識が社会的にも広まって、どこかに決着の地点があると思ったけれど、10年たってもまったくない。だから、自分の世代の問題として、どこかで落とし前をつけるまではこの問題からは離れられない。10年前は若者の貧困だったけど、今はもう若者じゃない。中年になっていて、それがどんどん初老になり、高齢者になっていく。この世代がどのへんで救われるのかが、ものすごく重要だと思っています。
■あまみや・かりん 1975年、北海道生まれ。高校卒業後、パンクロック歌手、右翼活動家などを経て作家に。2000年、「生き地獄天国」でデビュー。若者の生きづらさをテーマにした著作を発表している。著書に「プレカリアート」「雨宮処凛の闘争ダイアリー」など。「生きさせろ!難民化する若者たち」で日本ジャーナリスト会議賞受賞。「反貧困ネットワーク」世話人。最新刊に「14歳からの戦争のリアル」。
いつも、入れといて下さる「通信紙」
ヒューマン人権ネットワーク八幡NEWS
に載っていた
作家で活動家の 雨宮処凛さんをご紹介します。
※ 人材バンクネット HP です。
http://mainichi.jp/articles/20150804/mog/00m/040/003000c
雨宮さんは、今年、33歳。
今の若い人たちが、抱えている、悩みや混迷を
勉強したくて、UP します。
40歳年下の若い人の置かれている状況・・・
私の子ども時代は、戦後の混乱と復興、
思春期・青年期は
高度経済成長期で、
5年先の見通しが見えて、
希望の持てた社会だったように思います。
今は、どうか・・・?!
雨宮処凛さんの思いを読んで、
今の日本社会の問題点を、学んで行きたいです。m(_ _)m
失われた20年インタビュー
作家・雨宮処凛さん・・・
格差が、同じ日本で言葉が通じないくらい広がった
2015年8月4日
作家の雨宮処凛さん=東京都千代田区で2015年7月16日、内藤絵美撮影
フリーターとして働いた苦しい経験から非正規労働の救いのない状況、貧困を訴え続けている作家の雨宮処凛さん。「同じ日本に住んでいて言葉が通じないぐらいに格差が広がってきている。生活意識も何もかも全部違って、格差の上位の人と下の人たちで、一つも共感できるところがないふうになっている。そういう社会ってちょっと怖い」と話す。【聞き手・尾村洋介/デジタル報道センター】
【徹底総括】失われた20年 変容する日本の雇用はどこへ .
<失われた20年>ジャーナリスト小林美希さんインタビュー「非正規を全体に広げたのは大きな誤りだった」 .
<失われた20年>大田弘子・元経済担当相インタビュー「政治がメッセージ作れず、遠のいた構造改革」 .
<失われた20年>藤井裕久・元財務相インタビュー「恵まれない人に目を向けるのが政治の責任」 .
<座談会>失われた20年に学生たちは何を思う? .
−−雨宮さんがフリーターになったいきさつを教えてください。
雨宮さん 美大に進学したくて1993年に東京に出てきて、美大専門の予備校に行きました。バブル崩壊は何となく知ってたけど、東京に出た時はまだジュリアナ・ブームのような感じで、すごいバブルっぽい雰囲気がありました。94年に進学を諦めたんですが、その時に「就職氷河期」といわれていて、どうしたら就職できるかわからないし、まあアルバイトを始めようと思いました。実際に始めると、時給はどんどん下がっていって、バイト先でも「すごく悪い時にフリーターになったね」って言われましたね。
−−当面の仕事のような意識だったのでしょうか。
雨宮さん 最初はそんな感じでしたけど、始めて半年ぐらいたったら、もう、これ絶対逃れられないんだなっていうのに気づきましたね。95年ぐらいの時、自分の周りの友達と、「うちらは親が死んだらホームレスだよね」「野垂れ死にだよね」ということは冗談交じりに話してたんです。アルバイトだから風邪で一回休んだだけで家賃を滞納してしまったり、ガスや電気が止まったりするので、そのたびに親に電話し、泣きついてお金を借りていましたので。もう正社員にはほぼなれないし、なり方もわからないし。綱渡りの生活をしていた。世の中では自由でいたくてやっているフリーターというイメージがすごく強かったけど、自分たちはまったく自由だと思わなかったですね。でも、上の世代からは甘えてだらしがなくて怠けてるって言われるので、私は甘えているからこういう生活なんだろう、何かが自分に足りないからこうなってるんだって思ってました。社会が悪いとは一切思わなかったです。
−−すれすれの生活ですね。
雨宮さん バイトもしょっちゅうクビになるんです。本当は違法な解雇だったりするんですけど、当時は人格否定されたように思っていました。単純な仕事をクビになると結構きついんです。本当に誰にもできる、クソつまらないような仕事でさえ必要とされないというのは、一番底辺から蹴り落とされるようなところがありました。
−−何かよりどころはあったのでしょうか?
雨宮さん 私は一時期、右翼団体に入っていました。飲食店で働いていると、日本人のフリーターに比べて韓国人のほうが時給は安いのに働き者だから取り換えたいとか、そういうことを言われるんですよ。「自分は日本の底辺にいて、外国人労働者とまったく変わらない。もし外国人労働者と自分を区別するものがあるなら、それって日本人であることしかない」みたいな、過剰に日本人であるってことにすがっていきました。学生時代にバブルだったので、ものすごく受験勉強が厳しくて、受験戦争で傷つけられても、すべて頑張れば報われるという戦後日本の一番大切にしていた「神話」みたいなものを信じてきた。けれども、自分が社会に出たころ、「バブルが崩壊したから今までのことは全部うそになりました」と言われた気がして、すごくびっくりした。大人とか学校から教わってきたことが、たかが経済によってうそになるんだ、みたいな。それで後で思うんですが、天皇制はバブルで崩れなかったので、経済の停滞とかで崩れない揺るぎない価値観が欲しいという気持ちがありました。フリーターとして東京で1人暮らしをしていると、職場がなかったり、職場があってもしょっちゅうクビになったりするので、そこに帰属意識が持てないし、職場が変わるので友達もできない。学校にいけない、企業社会にも入れない、もちろん地域社会もない、どこにも居場所がなくて。そうなると、もう一気に国家しか居場所がないような感覚がありました。教育にうそをつかれたっていう被害者意識があったので、学校で教えてくれない靖国史観的なものが、自分の中にストンと入ってきた。私が入っていた右翼団体には同じような人が入っていました。
−−その団体が、当時の非常に不安定な状況を支えてくれることはあったんでしょうか?
雨宮さん 一時的にはありました。私を唯一必要としてくれる居場所でしたが、自分たちの苦しい現実から目をそらすために、アメリカがどうとか、そんな大きな話をしていた。自分たちの生活を何とかしようとか、自分たちの労働や生活の状況を問題にするということは一切なかったですね。逆に言うと、自分たちは日本人で恵まれているんだということを再確認し合う会話がずーっと続くというような、そんな感じでした。
−−今から考えると、どういうことだったんでしょう?
雨宮さん お前は悪くないよって誰かに言ってほしかったんですね。右翼の大人は、今の世の中で若者が鬱屈して生きづらいのは、日本国憲法が押し付け憲法だから悪い、アメリカと戦後民主主義が悪いと説明するんですが、その意味がわからなくても、自分が悪いと思わなくていいというところで自分の生きづらさをごまかすことができた。それではまりました。
−−右翼をやめたのはどうしてですか。
雨宮さん 私、そのころ総理大臣の名前も知らないくらいの大ばかだったんですけど、右翼の人が時事問題から何から教えてくれました。でも、ある程度物事がわかってきて自分の頭で考えるようになったら、私は全然、右翼じゃないな、右翼の人の言っていることは自分の考えとは違うなと思うようになり、やめました。
−−雨宮さんが「プレカリアート」(不安定な労働者)という問題に取り組み始めたのはいつごろからですか?
雨宮さん 2006年ごろですね。00年に脱フリーターして文筆業になって、不安定なプレカリアートという言葉をたまたまネットで見つけて引っかかるものを感じて、メーデーの集会に行った。そこで、新自由主義と生きづらさや自殺の問題の関係とか、日本の労働政策がどれほど変わってきたかというのを初めて知ったんですね。それまで、自分の周りの人たちがずいぶん自殺していたんですが、その背景には、個人の問題じゃなくて、何か構造的な問題、社会が関わっているんじゃないかとずっと考えていたときだったので、すっと理解できた。その十数年前からの労働政策や新自由主義で格差が広がり、普通に生き、普通に働くってことが特権階級にしか許されなくなったというような状況がある。自己責任などと言われて働けない自分を責めて、「すみません」って遺書とかで謝りながら死んでいった人もいます。どんどん労働市場が過酷になって、ちょっと不器用な人たちの居場所がなくなり、こんな自分が生きてちゃいけないと思って死んでいくような、そういうことがあった。集会で話を聞いて、その人たちのせいで死んだんじゃなく、人を生きさせないようなシステムがもう作られてたんだなと思った。「原因がやっとわかった。ここに敵がいたのか」みたいな感じでした。それをなくさないと私たちの生きづらさは絶対になくならないと思うと、猛然と腹が立った。
−−敵といってもシステムですか。
雨宮さん 当時は小泉政権でした。小泉さんは敵としてはある意味完璧というか、自己責任という言葉もそうですし、既得権益である正社員層からごっそり盗んで、非正規の人が何かおこぼれがくるんじゃないかと錯覚させるようなやり方が巧みだった。小泉さん個人というよりは、小泉さんが進めている労働法制の規制緩和などの政策が自分たちを追い詰めている。本当をいえば、それ以前からの政策で、派遣法ができたときぐらいから自民党の政治が進めてきた方向が、若者の貧困を個人の問題にして企業の利益を最大化していく。そこにみんな気づいて怒りだしたんです。
−−経済の停滞が始まって、企業は非正規を採用してコストを低くしました。それはどのように見えていましたか。
雨宮さん プレカリアートの問題を知ってからは、やっぱり企業は自分たちの利益のために人件費の削減をやっていこうとしているんだと、びっくりしました。日本の企業を誇りに思っているところがあったのに、名だたる大企業が非正規を使い捨てにしたために、派遣労働を経由してホームレスになっている人たちが山ほど生まれた。当時は景気が良いと言われていたけれど、自分たちにはその恩恵はないし、すごく苦しい人が増えているし、大企業の派遣で働きながらも月収10万円ぐらいの人もいた。まったく自分たちが思っていたのとは違う労働世界が広がっていて、その人たちはもう一生はい上がれないようなシステムになっちゃっている。それが始まったのがちょうど私たちの世代くらいからなんです。06年に私は31歳でした。同世代のフリーターは30代を超えて、仕事がなくなり始めてましたね。30の壁を超えられないとか、日本には30歳を超えたフリーターの行き場がないということにも気づいた。
−−企業の言い分についてはどう思いますか。
雨宮さん 結局、グローバル競争を勝ち抜いていくためには人件費を安くして当然じゃないか。一貫してそれです。企業は営利活動を目的としているので、企業を責めてもしょうがない。そこは政治がある程度歯止めをかけないと。営利活動が行き過ぎない雇用形態だとか、あっさりホームレス化しないような生活ができる賃金を払うという法規制は、どこの国でもやっている。日本は働いた賃金だけで生きていけっていうかなりの自己責任社会であるうえに、そこを不安定化、低賃金化されると、働く人に不利にできているので、みんなが不安定になってしまう。雇用保険も失業者の7割以上が受けていない上に住宅政策もないので、失業したらホームレスになっちゃう。
−−80年代から雇用の流動化が進んできましたが、不安定になる人を支える手立てをあんまり考えてこなかったんですね。
雨宮さん そうです。求職者への支援制度とかセーフティーネット的なものがやっとできたのは派遣村以降で、それもあまり使い勝手がいいとはいえないんです。本当は86年に派遣法ができたぐらいからやっておかないといけなかった。00年代に時限爆弾が爆発するように問題化した時には、まだ何もなかった。
−−プレカリアートの人たちに日本が豊かだという感覚は?
雨宮さん まったくないんじゃないですか。90年代は、自分たちが集まって話すときは常にうっすらと「豊かだけど生きづらい」と意識していました。それが00年代に入ると「生きづらいうえに貧乏、カネがない」というのを前提に語られるようになった。だから、一億総中流的なものって、言葉としては05年ぐらいまで生きていた気がします。90年代も自分たちは貧困ライン以下の生活をしていたのに、日本は経済大国という全体の幻想の中で、本当に気づくのが遅れてしまった。当事者は、社会に出たことがないから気づかない。あの時、誰か一人でも、気づいてくれたらと思います。今でこそ、若者の貧困が注目され、非正規の問題に取り組んでくれる人は増えましたけれどね。メディアに問題として発見されたから、認識が改まったってことですよね。
−−今現在の状況はどう見ていますか。
雨宮さん どんどん悪くなっていると思いますね。この前の国民生活基礎調査で、生活が苦しいという人が62・4%と過去最多でした。だから、アベノミクスって何なの、ってことです。年収200万円以下の人が増え、平均年収も下がっています。生活保護受給層は200万人をずっと突破しています。
−−リーマン・ショックの時、緩やかに回復していた景気が急速に悪化して、「派遣切り」などが表面化しました。こうしたことがまた起きる際の備えには何が必要ですか。
雨宮さん 自衛する方法としては制度を知っておくことですかね。労働組合が関われば、寮を追い出されないようにする交渉ができるので、フリーターでも入れる組合を知っておけばいい。あとは、最低限の生活保護に関する知識とか、住宅手当や求職者の支援制度もあります。使えるものは結構あるんですが、それがまったく周知されてない。日本ではそういう生きるか死ぬかにかかわる情報が全然知られてない。
−−どこを変えればいいのでしょうか?
雨宮さん 最低賃金を上げるとか、非正規にいろんな保障をつけるとか、過労死しない労働時間規制とか、そういう個別の小さな政策でできることってちゃんとあります。でも、日本社会がこの格差に対してまひしている感じがあるように思えるんです。最初はみんなすごいショックを受けて聞いてくれたんですが、今は誰も驚かないし、そういう社会だからしょうがないよね、それがグローバリズムに対応する先進国の宿命でしょう、とでもいうようなものを感じるんです。同じ日本に住んでいて言葉が通じないぐらいに格差が広がっていて、生活意識も何もかも全部違って、格差の上位の人と下の人たちで、一つも共感できるところがないふうになっている。そういう社会ってちょっと怖い。そういう相手を助けようとは誰も思わないだろうし、話を聞こうともしない。言葉も通じない怠け者は自己責任だと思ったら、社会保障の分配の対象にするのにも反対すると思うんですね。そういうふうになってきている感じがする。
−−これから先の展望はどうでしょうか?
雨宮さん 自分たちの世代は自分を「絶滅危惧種」って呼ぶようになってきています。結婚して子供を残せない、種を残せないから、そのまま絶滅していくだけの運命という意味です。今住んでいる6畳一間のアパートとかにみんな居続ける。フリーターとか非正規で働いている人たちはその家賃も払えなくなってくると思う。川崎市で起きた簡易宿泊所の火事では、あれが自分たちの未来の姿じゃないかというか、ああいうところで自分たちの世代がどんどん孤独死したり、火事で死んだり、そういう場所に行きつくしかないんじゃないかとすごく感じました。
−−5年先、10年先にやっていきたいことは何ですか。
雨宮さん 自分の世代のこの問題が、何か運動とかすれば解決とか決着というか、どこかに着地するのかと思っていたんですね。雇用があまりにも流動化したことが原因だから、セーフティーネットが必要だ、彼らが悪いわけじゃないんだという認識が社会的にも広まって、どこかに決着の地点があると思ったけれど、10年たってもまったくない。だから、自分の世代の問題として、どこかで落とし前をつけるまではこの問題からは離れられない。10年前は若者の貧困だったけど、今はもう若者じゃない。中年になっていて、それがどんどん初老になり、高齢者になっていく。この世代がどのへんで救われるのかが、ものすごく重要だと思っています。
■あまみや・かりん 1975年、北海道生まれ。高校卒業後、パンクロック歌手、右翼活動家などを経て作家に。2000年、「生き地獄天国」でデビュー。若者の生きづらさをテーマにした著作を発表している。著書に「プレカリアート」「雨宮処凛の闘争ダイアリー」など。「生きさせろ!難民化する若者たち」で日本ジャーナリスト会議賞受賞。「反貧困ネットワーク」世話人。最新刊に「14歳からの戦争のリアル」。
このブログ夢想花2014年05月28日号で載せた詩(もどき)を、
一部、改訂しました。
【人の間】うすき社会で・・
かつて、わが国で
町や村のあちこちで、
自然発生的に【井戸端会議】がされていた!
老若男女が相集い、
噂話や子育ての話しに花が咲いた!
【井戸端会議】はうっとうしかった!
噂話は、人を苦しめ、
“世間体”というくびきが人を苦しめた!
だが、一方
【井戸端会議】は、
地域社会の絆を深め
生活や子育てで、
“知恵の伝承”や“助け合い”が生まれ、
大人たちが、
近所の子どもたちを叱ったりした!
その意味で、
子どもたちは大人の目に囲まれて育ち、
若者も、人生の知恵を、年配者から学んだ!
しかし、
1960年代から始まった高度経済成長!
わが国は、
世界でも、有数の経済大国、豊かな国に成った
豊かになって得たもの
・・・それは物質的に、過剰なまでの豊かさ
だけど、一方で、失ってきたもの
・・・人と人の紐帯と助け合い
それでいて、人は人恋しくて
流行り歌の世界でも、“愛”や“恋”の言葉が氾濫し、
だけど、一方、
オマエの助けなんか、要らねーよ!
オレはオレで生きていく!
の言葉が、氾濫する!
家の塀が高くなり、家の中が孤立し、
隔絶された。
だけど、
人は、何を求めているのか?
人は、何をもって人たらんとするのか?!
ウザイ、ダサイ、クサイ、キショい!
人は【人の間】で人間になるはずなのに
・・・人と人を切る言葉が氾濫し、
さらに、インターネット通信の発達で、
子どもは、
大人からよりも、ネットで情報を知り、
実体験の裏付けの乏しい、
“情報氾濫の渦”に、呻吟する。
【人の間】うすき社会は、
人の温もりから遠い“孤立”の世界に
人をどうしようとするのか?!
子どもをどう育てようようとしているのか?!
~~~~~~~~~
※ 子どもを巡る事について、
このブログで触れた号 です。クリックをお願いします。m(_ _)m
http://poeny.shiga-saku.net/search.php?csrf=c58ed238d2c165feab2b3bb217edb005169a0715&search=%E5%AD%90%E3%81%A9%E3%82%82
一部、改訂しました。
【人の間】うすき社会で・・
かつて、わが国で
町や村のあちこちで、
自然発生的に【井戸端会議】がされていた!
老若男女が相集い、
噂話や子育ての話しに花が咲いた!
【井戸端会議】はうっとうしかった!
噂話は、人を苦しめ、
“世間体”というくびきが人を苦しめた!
だが、一方
【井戸端会議】は、
地域社会の絆を深め
生活や子育てで、
“知恵の伝承”や“助け合い”が生まれ、
大人たちが、
近所の子どもたちを叱ったりした!
その意味で、
子どもたちは大人の目に囲まれて育ち、
若者も、人生の知恵を、年配者から学んだ!
しかし、
1960年代から始まった高度経済成長!
わが国は、
世界でも、有数の経済大国、豊かな国に成った
豊かになって得たもの
・・・それは物質的に、過剰なまでの豊かさ
だけど、一方で、失ってきたもの
・・・人と人の紐帯と助け合い
それでいて、人は人恋しくて
流行り歌の世界でも、“愛”や“恋”の言葉が氾濫し、
だけど、一方、
オマエの助けなんか、要らねーよ!
オレはオレで生きていく!
の言葉が、氾濫する!
家の塀が高くなり、家の中が孤立し、
隔絶された。
だけど、
人は、何を求めているのか?
人は、何をもって人たらんとするのか?!
ウザイ、ダサイ、クサイ、キショい!
人は【人の間】で人間になるはずなのに
・・・人と人を切る言葉が氾濫し、
さらに、インターネット通信の発達で、
子どもは、
大人からよりも、ネットで情報を知り、
実体験の裏付けの乏しい、
“情報氾濫の渦”に、呻吟する。
【人の間】うすき社会は、
人の温もりから遠い“孤立”の世界に
人をどうしようとするのか?!
子どもをどう育てようようとしているのか?!
~~~~~~~~~
※ 子どもを巡る事について、
このブログで触れた号 です。クリックをお願いします。m(_ _)m
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Posted by 夢想花 at
01:39
│Comments(0)
落語家 橘屋圓蔵さんが、
享年81歳で、
お亡くなりになりました。
宿命とは言え、私の人生のど真ん中を、
笑いを送り届けて下さった方・・・悲しいです。
圓蔵さん、
1952(昭和27)年に、七代目橘屋円蔵さんに入門、
1965(昭和40)年に真打ちに昇進、三代目月の家円鏡を襲名。
昭和27年は、私が、小学校3~4年生、
ラジオからは、菊田一夫原作、ドラマ「君の名は」が流れ、
戦争で離れ離れになった春樹・真知子が再会し、
金曜日の夜8時は、女風呂ががら空き、
多くの感涙を呼び、おマセさんだった小学生の私も、感涙してました。
街には、春日八郎さんの♪お冨さん♪が流れ、私も
分かった風な顔をして、熱唱し、踊り、手拍子してました。
1965(昭和40)年と言えば、
東京オリンピックの翌年、
新幹線列車が走り、街は高度経済成長まっしぐら、私は、
お巡りさんになって、3年目、夢多き青春期でした。
円鏡さんの、黒縁眼鏡で、キンキン声とすっとぼけたお笑いは、
今も、強く記憶に残っています。
時代は、カラーテレビの時代、
我が家でも、私の給料で、カラーテレビが買えて、
少し苦労が減って来た、
明治生まれの母親が、ゲラゲラ笑って居ました。
こう考えてみると、
圓蔵さんと言うより 円鏡さんと呼ばせて下さい。
円鏡さんは、私の人生のド真ん中・・・!!!
9歳上の兄さんです。
宿命とは言え、
81歳、心室細動のため、ご逝去されました。
寂しい、切実、でも、現実です。
円鏡さん、どうか、
天国でも、すっとぼけた芸で、
笑いの渦を巻き起こして下さい。 m(_ _)m
享年81歳で、
お亡くなりになりました。
宿命とは言え、私の人生のど真ん中を、
笑いを送り届けて下さった方・・・悲しいです。
圓蔵さん、
1952(昭和27)年に、七代目橘屋円蔵さんに入門、
1965(昭和40)年に真打ちに昇進、三代目月の家円鏡を襲名。
昭和27年は、私が、小学校3~4年生、
ラジオからは、菊田一夫原作、ドラマ「君の名は」が流れ、
戦争で離れ離れになった春樹・真知子が再会し、
金曜日の夜8時は、女風呂ががら空き、
多くの感涙を呼び、おマセさんだった小学生の私も、感涙してました。
街には、春日八郎さんの♪お冨さん♪が流れ、私も
分かった風な顔をして、熱唱し、踊り、手拍子してました。
1965(昭和40)年と言えば、
東京オリンピックの翌年、
新幹線列車が走り、街は高度経済成長まっしぐら、私は、
お巡りさんになって、3年目、夢多き青春期でした。
円鏡さんの、黒縁眼鏡で、キンキン声とすっとぼけたお笑いは、
今も、強く記憶に残っています。
時代は、カラーテレビの時代、
我が家でも、私の給料で、カラーテレビが買えて、
少し苦労が減って来た、
明治生まれの母親が、ゲラゲラ笑って居ました。
こう考えてみると、
圓蔵さんと言うより 円鏡さんと呼ばせて下さい。
円鏡さんは、私の人生のド真ん中・・・!!!
9歳上の兄さんです。
宿命とは言え、
81歳、心室細動のため、ご逝去されました。
寂しい、切実、でも、現実です。
円鏡さん、どうか、
天国でも、すっとぼけた芸で、
笑いの渦を巻き起こして下さい。 m(_ _)m