

テーブル・フォー・ツー
TABLE FOR TWO
世界には、飢餓と飽食という、深刻な“食の不均衡”があります。それを、先進国の身近な食卓から支援し、解決につなげていこうとする事業です。 企業の社員食堂などで、低カロリーメニュー1食につき20円を上乗せしてもらい、その20円をアフリカの学校の給食費一食分として寄付するシステムです。
日本生まれの国際貢献活動。


図式しますと
先進国の人のヘルシーな食事
→→飢餓に苦しむ子どもたちの空腹が満たされる
因みに、FOR TWO の意味は、「見知らぬ君と食べる」という意味があるのでしょうね。
・・・初めて知りました。飢餓に苦しむ子どもたちの空腹を満たす、ということになると、私たちのメタボ対策食事の励みにもなります。企業や学校の食堂で広がりつつあるようですが、外食店にも広がっていけば、そこに、優先的に行きた~~~い

※ “テーブル・フォー・ツー”のアドレスです。
http://www.tablefor2.org/jp/index_jp.html
・・・ちょっと虫のよい(?)のお願いですが・・・
個人の参加協力システムもあるようですが、毎月、一口、なん千円というのは、ぶっちゃけ言うと、年金生活では、辛い! 長く続けられるためにも、もっと金額を下げてはどうでしょうか? その方が、広く、参加して貰えるのではないでしょうか?
コンビニなどでテーブル・フォー・ツー対象商品を買う道もあるようですが、現状では、まだまだ広がっていないようです。
事務局の方々、
各個人や家庭から、参加しやすい方法を、ご一考お願いしま~す

・・・戦後もののない時代に育った私にとっては、当時の空腹と今の飽食は、両極端です。ですが、つい、飽食に身を委ねてしまっている! ・・・そんな反省を込めて、下手な一句です。
いまグルメ 昔空腹 飯も来るめ~
だじゃれ系ですが、決して、ふざけている訳ではありません



カンボジアに9つ目の学校を
~~~ 改めて 「学校の意味は?」 ~~~
日本人の北條友梨さん(77歳)が、内乱と貧しさのため学校へ行けない子どもたちのために、カンボジアに今まで8つの学校を造り、今、9つめの学校づくりのため、奮闘されていることが放映され、感動しました。学校に行けないのが当たり前のような状況下にある子どもたち。子どもたちも親たちも、ゴミ捨て場からお金になるようなモノを拾って、家計の足しにする。子どもの数も多く、親は、家計のために、子どもの稼ぎをアテにして、子どもたちは学校へ行けない。そんな子どもたちも、「お母さんを助けたい」という思いを一杯持っている。




・・・私も、さらに考えていきたいと思います。「学ぶことの意味」を、皆さまも、お子様と、お話し合いされてはどうでしょうか?

この番組のアドレスです。ぜひ、クリックしてみてください。
http://www.tbs.co.jp/yumetobi/backnumber/20080309.html
北條友梨さんが代表を勤められるボランティア団体「アーク」のアドレスです。
http://ark-hakobune.at.webry.info/
話しが前後するが、1952(昭和27)年4月28日だった、と思う。小学校3年生のとき、朝礼で校長が、いつもより語気を荒げて「日本は独立・・・」どうのこうのと言っていた。私は、長い話しに立ち疲れてウンザリしていた。そのうち、生徒のひとりが後の方でよろけたようで、その時、校長はダダダッと壇上から降りてきて、その子の傍にいき、「そんなことでどうするのか!」と、大声を出していたのを、滅多にないことだったので、覚えている。
金曜日の夜は、「君の名は」のラジオ・ドラマが流れた。春樹・真知子・真知子巻き・菊田一夫の名と「忘却とは忘れ去ることなり」という冒頭のナレーションを、今も覚えている。今から思うと、当時の娯楽は少なく、流行のサイクルが長かったので、強く印象に残ったのではないだろうか。1953(昭和28)年ごろだったと思うが春日八郎の「お富さん」が大ヒットし、夏の盆踊りでその歌にのって踊った。
小学生時代、家の米びつが空で食べるものがなく朝食を食べられずに学校へ行くことも多く、昼の給食が楽しみだったから、学校を休んだらもったいなかった。だから、当時は「不登校」ということはほとんど聞かなかった。夜、寝小便をたれて、親に怒られるものだから、親に隠して小便臭い匂いで学校に行った。教室には、そういう子どもが数人にいて、「臭いから」という理由でイジメが発生するなんてことはなかった。家の内風呂もなく、お金がもったいなから風呂代が1回20~30円ほどの銭湯に行けず、数日入浴もせず、不潔で、髪の毛からフケなんてことは当たり前だった。けっこうクラスの団結は強くて、自分のクラスの子をかばって、よくクラス対抗で、言い合いや喧嘩をした。因みに、昭和40年代ころから、清潔であることが過度にもてはやされ、「フケいやいや」という石鹸会社のコマーシャルがテレビから流れるに及んで、子どもたちの清潔意識が喚起され、自分の清潔感に合わない人を排除するイジメ的なことが進行していったのではないかと思っている。過度の清潔感の喧伝の進行のなかで、「O157」に弱い日本の子どもたちの現状を見るとき、また、不潔を極度に嫌う子どものいることを考えるとき、地球の微生物との共生という視点が、もっと、子育ての中に入ってきてもよいのではないだろうか? 昔からの諺に「水清ければ魚住まず」というのがあるように・・・。(昭和20年代の様子、さらに次回につづく)
金曜日の夜は、「君の名は」のラジオ・ドラマが流れた。春樹・真知子・真知子巻き・菊田一夫の名と「忘却とは忘れ去ることなり」という冒頭のナレーションを、今も覚えている。今から思うと、当時の娯楽は少なく、流行のサイクルが長かったので、強く印象に残ったのではないだろうか。1953(昭和28)年ごろだったと思うが春日八郎の「お富さん」が大ヒットし、夏の盆踊りでその歌にのって踊った。
小学生時代、家の米びつが空で食べるものがなく朝食を食べられずに学校へ行くことも多く、昼の給食が楽しみだったから、学校を休んだらもったいなかった。だから、当時は「不登校」ということはほとんど聞かなかった。夜、寝小便をたれて、親に怒られるものだから、親に隠して小便臭い匂いで学校に行った。教室には、そういう子どもが数人にいて、「臭いから」という理由でイジメが発生するなんてことはなかった。家の内風呂もなく、お金がもったいなから風呂代が1回20~30円ほどの銭湯に行けず、数日入浴もせず、不潔で、髪の毛からフケなんてことは当たり前だった。けっこうクラスの団結は強くて、自分のクラスの子をかばって、よくクラス対抗で、言い合いや喧嘩をした。因みに、昭和40年代ころから、清潔であることが過度にもてはやされ、「フケいやいや」という石鹸会社のコマーシャルがテレビから流れるに及んで、子どもたちの清潔意識が喚起され、自分の清潔感に合わない人を排除するイジメ的なことが進行していったのではないかと思っている。過度の清潔感の喧伝の進行のなかで、「O157」に弱い日本の子どもたちの現状を見るとき、また、不潔を極度に嫌う子どものいることを考えるとき、地球の微生物との共生という視点が、もっと、子育ての中に入ってきてもよいのではないだろうか? 昔からの諺に「水清ければ魚住まず」というのがあるように・・・。(昭和20年代の様子、さらに次回につづく)