テレビを見て、
その言葉に、感激し、考えさせられました
kao_01

内田裕也さんの葬儀で
故樹木希林さんと裕也さんとのお嬢さん
内田也哉子さんの喪主謝辞です。

その動画 です。
https://www.nicovideo.jp/watch/sm34904165

 <全文は次の通り。>
私は正直、父をあまりよく知りません。
わかり得ないという言葉の方が正確かもしれません。
けれどそれは、
ここまで共に過ごした時間の合計が、
数週間にも満たないからというだけではなく、
生前母が口にしたように、
こんなに分かりにくくて、
こんなに分かりやすい人はいない。
世の中の矛盾を全て表しているのが
内田裕也ということが根本にあるように思います。

私の知りうる裕也は、
いつ噴火するか分からない火山であり、
それと同時に
溶岩の間で物ともせずに咲いた野花のように、
すがすがしく無垢(むく)な存在でもありました。

率直に言えば、
父が息を引き取り、冷たくなり、
棺に入れられ、熱い炎で焼かれ、
ひからびた骨と化してもなお、
私の心は、涙でにじむことさえ戸惑っていました。
きっと実感のない父と娘の物語が、
始まりにも気付かないうちに幕を閉じたからでしょう。

けれども今日、この瞬間、
目の前に広がるこの光景は、
私にとっては単なるセレモニーではありません。
裕也を見届けようと集まられた
おひとりおひとりが持つ父との交感の真実が、
目に見えぬ巨大な気配と化し、
この会場を埋め尽くし、ほとばしっています。
父親という概念には
到底おさまりきれなかった内田裕也という人間が、
叫び、交わり、かみつき、歓喜し、転び、沈黙し、
また転がり続けた震動を
皆さんは確かに感じとっていた。

これ以上、お前は何が知りたいんだ。
きっと、父はそう言うでしょう。

そして自問します。
私が父から教わったことは何だったのか。
それは多分、大げさに言えば、
生きとし生けるものへの畏敬の念かもしれません。

彼は破天荒で、時に手に負えない人だったけど、
ズルい奴ではなかったこと。
地位も名誉もないけれど、
どんな嵐の中でも駆けつけてくれる友だけはいる。
これ以上、生きる上で何を望むんだ。そう聞こえています。

母は晩年、
自分は妻として名ばかりで、
夫に何もしてこなかったと申し訳なさそうに
         つぶやくことがありました。
「こんな自分に捕まっちゃったばかりに」と
     遠い目をして言うのです。
そして、半世紀近い婚姻関係の中、
おりおりに入れ替わる父の恋人たちに、
あらゆる形で感謝をしてきました。

私はそんなきれい事を言う母が嫌いでしたが、
彼女はとんでもなく本気でした。
まるで、はなから
夫は自分のもの、という概念がなかったかのように。

もちろん
人は生まれ持って誰のものではなく個人です。
歴(れっき)とした世間の道理は承知していても、
何かの縁で出会い、
夫婦の取り決めを交わしただけで、
互いの一切合切の責任を取り合うというのも、
     どこか腑(ふ)に落ちません。

けれでも、
真実は母がそのあり方を自由意思で選んでいたのです。
そして父も、
1人の女性にとらわれず心身共に自由な独立を選んだのです。

2人を取り巻く周囲に、
これまで多大な迷惑をかけたことを謝罪しつつ、
今更ですが、
このある種のカオスを私は受け入れることにしました。

まるで蜃気楼(しんきろう)のように、
でも確かに存在した2人。
私という2人の証がここに立ち、
また2人の遺伝子は次の時代へと流転していく。
この自然の摂理に
包まれたカオスも、なかなかおもしろいものです。

79年という長い間、
父が本当にお世話になりました。
最後は、彼らしく送りたいと思います。

Fuckin' Yuya Uchida,
don't rest in peace
just Rock'nRoll!!



    「内田裕也Rock’n Roll葬」で
     内田也哉子さん喪主謝辞

~~~~~~~

実際に父親の裕也さんに
記憶が乏しく、
母親の樹木希林さんの会話で、
そして、世間の風評を聴いてきた
      内田也哉子さん。

    彼女の弔辞を聴いて
     人生の多面性、
     人間の言葉の重みを噛みしめ、
     人間をすぐに決め付けず、
       upして勉強したく成った
        未熟者の私です。m(__)m


  

  感動の家族に乾杯! 再放送の予定です。
    コメントでお教え頂きましたので、
       ご紹介します。(T_T)/

※ このサイトから、ご紹介します。
http://www.geocities.jp/ohtashp/topics/kanpai/contents20171211.html

平成29年12月11日放送 幸せをありがとう 20周年スペシャル 名場面を一挙放送
20年間の笑いあり、涙ありの素敵な出会いの数々を、今夜一挙公開。出会った方のその後も徹底取材。小さかったあの子は今・・・。鶴瓶さんをしのぐ、個性あふれる人たちとの出会いや元気いっぱいのお年寄りや子供たち、大家族との出会いなど、選りすぐりの名・珍場面をお送りします!
 20年前、鶴瓶さんが種子島で出会った、授業をサボって卓球をしていた高校生。果たして現在、どんな人生を歩んでいるのか?
 12年前、鶴瓶さんが婚姻届を一緒に出しに行ったご夫婦が、現在どうしているのか?
 16年前、花嫁募集のテロップを出した千葉県の農家の息子47歳(当時)は、その後、結婚できたのか?
 7年前、蛭子さんから走って逃げた鶴瓶さんが偶然に出会った、大衆演劇「都若丸劇団」の若き座長・都若丸さん。今や、押しも押されもせぬ大スターとなった都若丸さんを、兵庫県香住町で開催された舞台を突撃取材!

等々、当時の映像を振り返りながら、出会った人々のその後の姿が明らかに!?(笑)。

どんなスペシャル番組になるのか、楽しみです!。

スタジオのゲストは、
シンガーソングライターで、俳優、演出家、タレントの、美輪明宏(みわ あきひろ)さん。
長崎県長崎市出身の82歳。
これまで、美輪さんが旅のゲストとして”家族に乾杯”に登場したことはありませんが、
美輪さん自身が、この番組の大ファンということで、
今回の20周年スペシャル番組のゲストとして、白羽の矢が立ったようです。

まずは
1997年、
第1回放送の鹿児島県西之表市(にしのおもてし)の旅から。
当時はまだ、
番組のテーマ曲『Birthday』が作られておらず、
さだまさしさんの『案山子』がオープニング曲に使われていました。

当時、45歳の鶴瓶さん(若い!)が向かったのは、
種子島高校。
校庭脇の建物内を覗くと、高校3年で受験という阿世知(あせち)くんが、
自習時間をサボって卓球をしている所を見つけてしまいます。
そこで鶴瓶さん、
『学校としては目をつぶる、その代わり家庭訪問に行く』と(笑)。
あれから20年。
その時の彼が、なんと、奥さんと子供を2人連れてスタジオに!。
       現在、姶良(あいら)市役所にお勤めだそうです。

小野アナウンサーによると、
鶴瓶さんが20年間で旅をした市町村の数は、
海外も含めて、342か所だそうです。
出会った人の数は、スタッフが数えてみると、およそ2万人・・・(汗)。
その中から、鶴瓶さんも顔負けの、ユニークで個性的な人物を紹介!

出会いに乾杯!
•2007年に
三重県鳥羽市(とばし)の旅で出会った、
72歳の勢力(せいりき)さん。
鶴瓶さんが、カラオケの司会を熱血指導してあげたことから、
      今でも鶴瓶さんを師匠と崇めているそうです!
•2006年に
島根県大田市(おおだし)の旅で出会った、
石見銀山」で観光ガイドをしている河村さん。
頼んでもいないのに、
♪吟永 石見銀山感懐』や『♪岸壁の母』を、
       延々と歌い続けてくれました(笑)。
•2006年に
宮崎県日南市の旅で出会った蛯原みっちゃん。
番組史上唯一、
旅の最初から最後まで、鶴瓶さんと一緒に行動してくれました(笑)。
•2016年に
島根県雲南市(うんなんし)の旅で出会った、93歳の黒田さん。
鶴瓶さんの質問に答えようと、まずは入れ歯を取り出すと、
マイペースでポリグリップを塗ってから、
それをゆっくり口に入れ、調子を確認すると・・・、
『あぁ、準備よし!(OKサイン)』(笑)。
•2007年に
徳島県鳴門市(なるとし)の旅で出会った、
レンコン農家の斎藤さん。
いつも飲みに行くと、
まずは女の子と、『かんぱ~い、おっぱ~い♪』とするそうです(笑)。
•2001年の
千葉県富津市(ふっつし)の旅では、
71歳の山中さんの奥さんと畑で出会い、
話題は47歳で独身という息子さんの話に。
そこで、画面には花嫁募集中のテロップ。
すると、その番組を見ていた女性が、彼を訪ねあてて、
何と1日で結婚を決意。16年経った今、大きな子供が3人!
•2002年に
富山県魚津市(うおづし)の旅で出会ったのは、
脳出血でリハビリ中の般若さん。
涙もろい般若さんは、家に戻り家族皆で乾杯しても、また涙!。
その一家と、スタジオが中継で繋がると、
般若さんは練習したと、鶴瓶さんに『こんーにちーは』と語りかけてくれました。

続いては、鶴瓶さんもビックリするほど、
スゴイ特技を持った子供たち。いやいや、パワフルなお年寄りも忘れて貰っちゃー困ります(笑)。ということで、『あっぱれ! 未来に乾杯、ご長寿に乾杯!』。

ご長寿に乾杯!
•2005年に
広島県大崎上島町(おおさきかみじまちょう)の旅で出会った、
明治39年3月生まれの数えで100歳になるタマヨさん。
元気の秘訣は、食べること!。
タマヨさんから、『わしより23日若い』と紹介された
同級生の籐解(とうげ)さんもお元気で、
鶴瓶さんが訪ねると、なんと畑仕事中。
鶴瓶さんが『100歳でしょ?』と尋ねても、『うにぁ、まだ99じゃ!』と(笑)。
•2006年に
沖縄県大宜味村(おおぎみそん)の旅で出会った、
道の駅でゴーヤを売って60年以上という、
名物おばぁのウシさん。御年104歳で、オッパイもあると(笑)。
玄孫まで集まって、皆で飲んで踊るのが楽しみだとか。
•2014年に
茨城県石岡市(いしおかし)の旅で出会った、
107歳のミツ子さんは、この番組登場の最高齢。
       なんと、現役の刺繍作家とのこと(驚)。
今年で110歳になったミツ子さんは、
この10月、
長寿と刺繍の功績を称えられ、石岡市から表彰されたそうです!

未来に乾杯!
•2012年に
広島県廿日市市(はつかいちし)の旅で出会った、
小学5年の向井君。
柔道をしている向井君は、
小学生なのに鶴瓶さん以上の体格で、171cm、88kg。
相撲対決を申し込んだ鶴瓶さん、必死に踏ん張りますが、
相手の向井君は取り組みながら
行司役のお母さんに向かって『カメラ持って来て』と余裕・・・(笑)。
•2005年に
宮崎県高千穂町(たかちほちょう)の旅で出会った、
剣道の強豪校・高千穂高校剣道部の本坊さん、高校1年生。
中学の県大会で優勝経験もある実力者。
剣道衣に着替えた鶴瓶さん、
     格好がサマになっているので腕に覚えがあるのか?と思いきや・・・、
     胴と面をつけて本坊さんに勝負を挑むと、
         メッタメタに打ち込まれてしまいました(笑)。
•2004年に
熊本県小国町(おぐにまち)の旅で出会った、
小学4年の真有ちゃん。
鶴瓶さんは、喋りのプロとして真有ちゃんに、
宿題の詩「たんぽぽ」(川崎洋)を読み聞かせますが、
     逆に真有ちゃんに間違いを指摘されてしまいます(汗)。
一方、真有ちゃんの音読は見事。
あれから13年、
スタジオに来てくれた彼女は23歳になり、
今年から月出小学校の国語の先生に!。
     今度は教え子たちに、「たんぽぽ」を読み聞かせています。

次は、「ぶっつけ本番旅」のはずなのに・・・。

偶然の奇跡に乾杯!
•2003年の
茨城県山方町(やまがたまち)の旅では、
今日が誕生日という方に出会い、
     鶴瓶さんがハッピーバースデーを歌ってあげました。
•2017年の
富山県富山市(とやまし)の旅では、
鶴瓶さんが商店街の福引を引いたら、
     なんと赤の「1等」を引き当て、”新巻鮭”をゲット!
•2017年の
鳥取県日南町(にちなんちょう)の旅では、
偶然にも登場した太鼓仲間は、なんと先に訪ねたお宅の息子さん!?
•2016年の
奈良県宇陀市(うだし)の旅では、
鶴瓶さんが通りがかった人に訪ね先の場所を尋ねると、
      『案内しましょうか』と。
その様子を隣で見ていた哀川翔さん、
『あんなに簡単に案内しますってなるんですか?
     あの人 仕込みの人?』と、どうしても納得できず・・・(笑)。
•2011年の
愛媛県大洲市の旅では、
ハーモニカを吹いてくれたおじいさんの
      口からポロっと落ちたのは・・・(笑)。

鶴瓶さんが号泣した奇跡とは!?
•2012年の
鹿児島県薩摩川内市(さつませんだいし)の旅では、
殿様の末裔の家があると聞き訪ねると、
81歳の入来院(いりきいん)さんは
去年奥さんを亡くして夕方になると寂しいと、
      鶴瓶さんと「極上吉乃川」で一杯。
そのぐい呑みが、
2008年に鹿児島県日置市(ひおきし)の旅で、
      鶴瓶さんがトイレを借りに訪ねた施設で出会った、
十四代・沈壽官(ちんじゅかん)さんの作った焼き物だそうです。
そこで鶴瓶さん、壽官さんに電話して、
二人の仲を取り持つと、二人は電話で
『女房が先に逝くほど悲しいことはない』と慰め合います。
      それを横で聞いていた鶴瓶さんは、号泣・・・。

次は、
鶴瓶さんが大ピンチ!?
•2003年の
山口県周防大島町(すおうおおしまちょう)の旅と、
2012年の香川県丸亀市(まるがめし)の旅では、
      大雨の中を歩き回り、足元はビショビショ、差す傘も吹き飛び・・・(汗)。
•2008年の
北海道網走市(あばしりし)の旅は、マイナス17度という寒さ。
一方、
1997年の長野県木曽福島町(きそふくしままち、
現・木曽町)の旅では、猛暑の中でお神輿を担いでノビてしまい・・・(汗)。
•2017年の
静岡県浜松市北区の旅と、
大分県中津市の旅では、
      ”下駄履き骨折”した足を引きずりながら・・・(汗)。
•1998年
岡山県勝山町(かつやまちょう、現・真庭市)の旅では、
       子どもからチューの嵐に・・・。
•2016年の
徳島県阿南市(あなんし)の旅では、
子どもたちと鬼ごっこをして自分の足腰の衰えを痛感し、唖然となり・・・。
•2008年の
千葉県鋸南町(きょなんまち)の旅では、
床屋さんで顔をあたってもらうと、鼾が・・・(笑)。

20年間・・・、いろいろありました(汗)。次は、

個性あふれる大家族との出会い。

大家族に乾杯!
•2009年の
愛媛県伊予市(いよし)の旅で出会ったのは、
仙波青果バナナ館の会長、84歳で現役の仙波さん。
90歳の長女を筆頭に、
9人ともご健在の兄弟姉妹は、なんと合計719歳!
•2010年の
ロシア・ウラジオストックの旅で出会ったのは、
大家族のために
朝から晩まで台所で料理を作り続けているというお婆ちゃん。
•2010年の
岐阜県岐阜市の旅では、
蛭子さんから走って逃げた鶴瓶さんが偶然出会ったのは、
「都若丸劇団」の座長・都若丸(みやこ わかまる)さん(30歳)と、
劇団員の皆さん。
あれから7年、今でも皆さん元気に全国を飛び回っています。
今年10月には、
若丸さんの甥っ子で14歳の颯貴(そうき)さんが劇団に加わりました!
•2005年の
広島県大崎上島町(おおさきかみじまちょう)の旅で出会ったのは、
明日結婚するという亜紀子さん。
今日、パートナーとなる男性と
婚姻届を出しに行くと聞いた鶴瓶さん、
      一緒に役場に付いていくことに。
12年ぶりにスタジオと中継が繋がると、
ご夫婦には小6を筆頭に3男2女の子供がいて、
      奥さんも立派に成長されていました!(笑)。

番組では、
2011年の東日本大震災以降、毎年、被災地にも訪問しています。
•2011年の
宮城県石巻市(いしのまきし)の旅は、
震災から2か月後。
震災後、初めての被災地への訪問です。
前に一度訪れた地で、
鶴瓶さんは懐かしい人たちとの再会を喜び合います。
そして、最後に訪れたのは、
難所となっていたお寺、「洞源院」。
実は、震災の1年半前に石巻市を旅した際に、
鶴瓶さんはこのお寺で落語会を開催することを約束していました。
鶴瓶さんが大変でしょうと尋ねると、
『大家族が急に出来たようなものですから、結構みんなで賑やかにやっていますよ』と、ご住職。いよいよ、落語会の開催です。大勢の避難所の方々の前で、鶴瓶さんは落語を一席、
ゲストの
さだまさしさんは、番組のテーマソング『Birthday』の歌をプレゼント。
   でも逆に、皆さんから元気を貰ったと語る、鶴瓶さんとさださんでした。

最後に
小野アナウンサー
20年間、ありがとうございました。そして、これからもどうぞよろしくお願いします!!!

~~~再放送は~~~
12月15日(金)午前0時10分~午前1時25分(木曜日の深夜)と、
12月31日(日)午前10時05分~午前11時20分
 の2回、NHK総合で放送予定です。

           体調整えて、見なくちゃ~~~!!!
             と、楽しみ、楽しみですkao_01

  

2010年03月08日

龍馬を愛した女たち

  きょうは、少し、現実から離れて・・・。NHKの「龍馬伝」を2度観ました。一度はテレビ放映の本番で、もう一度は録画したのを・・・。録画のテクを、やっと覚えましたkao10


      龍馬を愛した女たち


  ドラマは、結婚を誓った加尾と龍馬が、永遠の別れをするシーンです。加尾は、兄の「攘夷のために、京の公家様に使えて情報を送ってくれ!」と願いのために、泣く泣く龍馬と別れます。

  その時に、加尾が龍馬に言った言葉。。。。。


   龍馬さんは、私の生きたかった分の人生を生きてください!

と、叫びます。


  長く、因習や政略のために、自分の意思での婚姻もままならず、生き方も制約された当時の女性。

  加尾は、70何歳まで生きたそうですが、龍馬への切ない思いを抱いて、他の男性に嫁いで、生涯を生きたなんて・・・!

  それに、龍馬が江戸で修業した千葉道場の師範の娘の佐那も、龍馬への思いを抱いて、50何年の生涯を独身で過ごしたとか・・・。



・・・龍馬は、当時では、自由闊達すぎる発想の持ち主だと思いますが、龍馬を愛した女性たちの気持ちが、本当に切なくて、もて男龍馬への羨望と女性の切なさに、2度も、たっぷり観てしまいました。やがて、もうすぐ、お龍も登場してきます。出色の大河ドラマにつき、NHKに代わって、乞うご期待kao08icon10
感激して、なかなか寝付けましぇ~んicon11icon10! こんな切ないこと、若い時に、あったようなないような・・・?!  

Posted by 夢想花 at 01:08Comments(0)生きる

2008年06月05日

愛の反対語は?

 昨日、最高裁で、日本の社会に一石を投じる判決が出されました。

     両親の婚姻を国籍取得の要件とする
   国籍法の規定は違憲


 結婚していないフィリピン人の母と日本人の父の間に生まれ、生後に認知された10人の子が日本国籍の確認を求めた2件の訴訟の上告審判決で、最高裁判所は4日、両親の婚姻を国籍取得の要件とする国籍法の規定を違憲と判断し、10人全員の日本国籍を認めました。最高裁が法律の規定に違憲判決を出すのは戦後8件目らしいです。最高裁の違憲判断により、国会は国籍法の改正を迫られることになります。

 母親が日本人であったり、胎児のうちに日本人の父親が認知していれば、子どもは日本国籍を取得できていたのですが、生後に日本人の父親が認知した場合、両親が結婚していない、そして母親が日本人でないという理由で、子どもは日本国籍の取得を阻まれていました。阻んだ根拠は「国籍法」。

 子どもに責められるべき罪は、全くありません。子どもにはどうしようもないことで、国籍を持てないことの不利益を背負わせていた・・・むしろ責められるべきは、日本の法体制であり、社会ではなかったでしょうか? 今回の判決は、遅まきとは言え、そうした現実に一石を投じる判決でした。私も、今まで、申し訳なかったけど、この件について、あまり知らず、勉強不足でした。私も含めて、知らなかった・無関心という状況が世論を高まらせることもなく、10人の子どもたちにとっての大変な矛盾を支えていたのだと、判決を聞いて思いました。

  マザー・テレサこと本名アグネス・ゴンジャ・ボヤジュの言葉です。
 なお、少し注釈を加えますと、広くマザー・テレサという呼称で知られていますが、厳密には、「マザー」は指導的な修道女への敬称であり、「テレサ」はカトリック教会の修道名だそうです。は、ともかく・・・、次のエピソードが残っています。。。

  マザーテレサがある人に「愛の反対語は?」と聞きました。その人は「憎しみ」と答えた。マザーテレサは返して「憎しみは愛に変わる可能性がある。無関心は愛には絶対ならない。愛の反対語は『無関心』だ。」・・・と。

  限られた時間、生活に追われてすべてのことを知ることはできませんが、目にふたをして見ないようにすることは、避けたいものです。昨日のブログでも、政治について、委任状を渡す人、渡される人お互いに顔を見ることの大切さを、申させて頂きました。可能な限り、勉強をして、知っていきたい。
 ごめんね、10人の子どもたちに心の中で謝りつつ、一緒に、社会を造ってゆこう、あなたたちの提起と最高裁の英明な判決が、国会と社会、日本を前進させるものであって欲しい。有り難う!
 


※ 結婚していない両親の間から生まれた子どもの国籍問題については、次のアドレスをみてください。勉強になります。

http://www.nikkei.co.jp/neteye5/nakamura/20050519na85j000_19.html  

Posted by 夢想花 at 01:17Comments(14)共感・頑張って!
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