人生の一ページ、そして、最終章を、刹那とか激怒で、間違わないように、お節介ながら、このブログの2008年7月19日号で発表した詩を、またぞろ、引っ張り出してきました
。
潤沢と欠乏!!!
人は、生まれて、生きて、死んでゆく。
そのことは、誰もが同じ。
だけど、生きていく上で
時間や物や人から受ける愛は
みんな ばらばら。
人は、時間・物・愛がありすぎると、
それが当たり前になって、
感謝の気持ちを忘れ鈍感になる。
時間や物や人の愛に恵まれない人が、
どれほど、
時間や物や人の愛を求めるか・・・。
私もそうだった
終戦、昭和20年前後の幼少期
物がなく、食べるものがなく
腹ぺこが当たり前だった子ども時代
幸いに、愛や時間には恵まれてきたけれど
“飢え”の体験が、今の私を造ってる
だけど、そのすべてのベース(基盤)は、
身近な人に愛されて、人への信頼があること
人の愛、人への信頼をベースに
人は、“欠乏”からも、
“欠乏”だからこそ
多くを心に刻みつづける!!!

潤沢と欠乏!!!
人は、生まれて、生きて、死んでゆく。
そのことは、誰もが同じ。
だけど、生きていく上で
時間や物や人から受ける愛は
みんな ばらばら。
人は、時間・物・愛がありすぎると、
それが当たり前になって、
感謝の気持ちを忘れ鈍感になる。
時間や物や人の愛に恵まれない人が、
どれほど、
時間や物や人の愛を求めるか・・・。
私もそうだった
終戦、昭和20年前後の幼少期
物がなく、食べるものがなく
腹ぺこが当たり前だった子ども時代
幸いに、愛や時間には恵まれてきたけれど
“飢え”の体験が、今の私を造ってる
だけど、そのすべてのベース(基盤)は、
身近な人に愛されて、人への信頼があること
人の愛、人への信頼をベースに
人は、“欠乏”からも、
“欠乏”だからこそ
多くを心に刻みつづける!!!
「カーネーション」観て、ホッとしました
。
奈津は、生きとった~~!
プライバシーの壁、何とかならんか!
奈津は、生きとった~~!
昨日からの心配!
大袈裟に言えば、日本中が心配していた
NHKTV連ドラ「カーネーション」の
糸子の変な友だち、奈津の消息。
死んだんじゃなくて、退院!
とのことでした。ホッ
!
そこで、次に、奈津が一人暮らし、
困ってないか、孤独死しないかと、
糸子が病院に所在を問い合わすも、
プライバシーの壁、個人情報秘匿の壁に、
阻まれて教えて貰えず、
このプライバシー、個人情報秘匿の壁、
と言うのがくせ者やね
!
プライバシー、個人情報秘匿の壁に阻まれて、
一人ひとりが“孤立”“孤独”に追いやられて、
その壁の向こうで、弱者が、子どもが、老人が
虐待されているかも知れない!
桜子ちゃんや楓ちゃんの悲劇も生まれなかった!
ものは、程度問題、バランスの問題!
過度に、権利権利と言ってばかりいると、
「権利の濫用」や
「強者の権利」ばかり守られることになりかねない。
病院も、学校も、行政も
強者に文句を言われたくないから、
“及び腰”
かくして、
【強者に弱く、弱者に強い】
病院・学校・行政が
生まれるのではないか?
バランスが必要!
誰のための権利なのか?!
そのために、どう自分の権利の一部を
お互いの幸せのために、提供していくか?
まさに、みんなが納得できる社会を国を造っていかねば、
狼の狼による狼のための国や社会になりかねない!
と、昔、井戸端会議もあって、本音の喧嘩もあったけど、
お節介、世間体、時に譲り合い助け合いのあった
幼少期の近所づきあいを知る
夢想花は、考えるのです。
今は、
喧嘩もしないけど、お互いの壁の内側に
人を入れようともせず、
その結果、孤立・孤独・人間不信に苦しみ、
対人関係の持ち方に【習熟】せずに
苦しんで若者や子どもたちも
多いのではないでしょうか?
人間関係にもまれずに育つから、
幼い子どものまま、親になって戸惑う!
と、いうことになるのではないでしょうか

昔のように、井戸端会議、お節介、
子どもたちの「異年齢集団遊び」が懐かしい




ここでも、
お節介の復権を、ぜひ~~~




奈津は、生きとった~~!
プライバシーの壁、何とかならんか!
奈津は、生きとった~~!
昨日からの心配!
大袈裟に言えば、日本中が心配していた
NHKTV連ドラ「カーネーション」の
糸子の変な友だち、奈津の消息。
死んだんじゃなくて、退院!
とのことでした。ホッ

そこで、次に、奈津が一人暮らし、
困ってないか、孤独死しないかと、
糸子が病院に所在を問い合わすも、
プライバシーの壁、個人情報秘匿の壁に、
阻まれて教えて貰えず、
このプライバシー、個人情報秘匿の壁、
と言うのがくせ者やね

プライバシー、個人情報秘匿の壁に阻まれて、
一人ひとりが“孤立”“孤独”に追いやられて、
その壁の向こうで、弱者が、子どもが、老人が
虐待されているかも知れない!
桜子ちゃんや楓ちゃんの悲劇も生まれなかった!
ものは、程度問題、バランスの問題!
過度に、権利権利と言ってばかりいると、
「権利の濫用」や
「強者の権利」ばかり守られることになりかねない。
病院も、学校も、行政も
強者に文句を言われたくないから、
“及び腰”
かくして、
【強者に弱く、弱者に強い】
病院・学校・行政が
生まれるのではないか?
バランスが必要!
誰のための権利なのか?!
そのために、どう自分の権利の一部を
お互いの幸せのために、提供していくか?
まさに、みんなが納得できる社会を国を造っていかねば、
狼の狼による狼のための国や社会になりかねない!
と、昔、井戸端会議もあって、本音の喧嘩もあったけど、
お節介、世間体、時に譲り合い助け合いのあった
幼少期の近所づきあいを知る
夢想花は、考えるのです。
今は、
喧嘩もしないけど、お互いの壁の内側に
人を入れようともせず、
その結果、孤立・孤独・人間不信に苦しみ、
対人関係の持ち方に【習熟】せずに
苦しんで若者や子どもたちも
多いのではないでしょうか?
人間関係にもまれずに育つから、
幼い子どものまま、親になって戸惑う!
と、いうことになるのではないでしょうか


昔のように、井戸端会議、お節介、
子どもたちの「異年齢集団遊び」が懐かしい





ここでも、
お節介の復権を、ぜひ~~~






おまんのこだわりは何ぜよ?
・・・【副題】 ある高齢者の食育革命?
実は、私、お医者さんから強く減量をススメられて、長年、染みついた食事に対する意識の革命を始めたのです。
実は、終戦前と終戦直後、モノのない時代に幼少期を過ごし、食べるものに飢えた私は、食事に対しては実に謙虚(?)で、今まで“好き嫌い”を言ったことがありません。それが今までの私の人生で唯一の自慢!
★ 食べ物の好き嫌いをしない!
★ 自然の恵み、動植物から命頂いていること、そして食糧の生産や流通、調理に関わっている人に感謝すること。
★ 従って、出されたモノは、残さずに最後まで食べるコト。美味しく食べること。
を、親からきつく教えられ、以後、60数年、固く墨守してまいりました。
家での食事は、分量を調節できますが、外食の際も一切残さず、その結果、身体ぶくぶく、お医者さんから「勧告」を受ける仕儀になったのです。
ここで、夢想花、やや深刻に考え、親の教えに背くけど、食べ物は大胆に残そう! 若い人に多く見られるように、食べ物を残していくよう、意識変革・意識革命を余儀なくされました。
おまんのこだわりは何ぜよ? 今までの信条(?)を、【黒船】の来航によって、我が身を守る、龍馬に遠く及ばないけれど、小さな決意をした次第です

同じ悩みを抱えたご同輩の何かの参考になれば幸いです
