実は、私は、
今まで、
テレビ番組・そこまで言って委員会
で、反発を覚えることが
しばしば有りましたが、
今日の放映内容は、
今までの、内容を
組み合わせて、
日本と世界の現状を
様々な角度から
取り上げて、
疎い私のアタマに、投げかけて下さいました。
その内容の一部です。
https://www.youtube.com/channel/UCFf21op6Q2OG_H7-pQmCc_Q
今回は、野村明大さんが、
活躍されましたが、
日本の、政界の不明朗な点、等を
この番組を、長く・永く続けて、
日本と世界の平和安寧の維持!
に資して下さい。
お願いします。m(__)m
※ このブログで、
時事問題、に触れた号です。
クリックをお願いします。m(__)m<
https://poeny.shiga-saku.net/search.php?csrf=dcf9cbbf9eb9f5b97e1529567c7c21adca11d58a&search=%E6%99%82%E4%BA%8B%E5%95%8F%E9%A1%8C
今まで、
テレビ番組・そこまで言って委員会
で、反発を覚えることが
しばしば有りましたが、
今日の放映内容は、
今までの、内容を
組み合わせて、
日本と世界の現状を
様々な角度から
取り上げて、
疎い私のアタマに、投げかけて下さいました。
その内容の一部です。
https://www.youtube.com/channel/UCFf21op6Q2OG_H7-pQmCc_Q
今回は、野村明大さんが、
活躍されましたが、
日本の、政界の不明朗な点、等を
この番組を、長く・永く続けて、
日本と世界の平和安寧の維持!
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昨日は、午後3時半頃、
やっと、晴れてきて、
スマホ計測で、
1時間強、
7944歩。5,4km
ウォーキングしました。
帰宅して、夕方、
天空には、
久し振りに見る、
夕焼け空が、広がっていました。
感激です。
地球と天空の奇跡の融合・・・!
この地球に住む、
人間の一人として
感激、そして、感謝です。
そして、今、深夜、
雨音は、無くなりましたが、
蒸し暑さは、変わらず、
トホホ、です。m(._.)m
~~~夜が明けて、午後、パソコンで追記します。~~~
老体故のせいなのか。
暑いようで、寒い、
寒いようで、暑い昼間、
福を、では無しに
服をまとって、
テレビを見て、
時事問題を考えたり、
お笑い番組で、ヘラヘラ笑ったり、
世界の、ゴーマン権力者の動向に、怒ったり、
貧困にあえぐ人々の苦しみに
自分の力の乏しさもあって
より心痛めたり、
この土曜日も、過ごしています。
昭和20年代の、子どもの頃には、
思いも付かない情報に接し、
いろいろ、考えさせられますと
同時に、
自分の無力さに気付かされます、
私も、庶民、
一人の老人ですが、
こんな世界に、権力者の皆さま、
どうかそうか、適切な手を差し伸べて、
頑張って下さいますよう。
この地球が、幸せの天球と成りますよう、
お願いしたい、切望する
老爺の私で、ございます。m(__)m
※ このブログで、
民衆の平和安寧!、に触れた号です。
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やっと、晴れてきて、
スマホ計測で、
1時間強、
7944歩。5,4km
ウォーキングしました。
帰宅して、夕方、
天空には、
久し振りに見る、
夕焼け空が、広がっていました。
感激です。
地球と天空の奇跡の融合・・・!
この地球に住む、
人間の一人として
感激、そして、感謝です。
そして、今、深夜、
雨音は、無くなりましたが、
蒸し暑さは、変わらず、
トホホ、です。m(._.)m
~~~夜が明けて、午後、パソコンで追記します。~~~
老体故のせいなのか。
暑いようで、寒い、
寒いようで、暑い昼間、
福を、では無しに
服をまとって、
テレビを見て、
時事問題を考えたり、
お笑い番組で、ヘラヘラ笑ったり、
世界の、ゴーマン権力者の動向に、怒ったり、
貧困にあえぐ人々の苦しみに
自分の力の乏しさもあって
より心痛めたり、
この土曜日も、過ごしています。
昭和20年代の、子どもの頃には、
思いも付かない情報に接し、
いろいろ、考えさせられますと
同時に、
自分の無力さに気付かされます、
私も、庶民、
一人の老人ですが、
こんな世界に、権力者の皆さま、
どうかそうか、適切な手を差し伸べて、
頑張って下さいますよう。
この地球が、幸せの天球と成りますよう、
お願いしたい、切望する
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青空が見えて、
秋空の筈なのに、結構蒸し暑く、
老いの私には、堪えます。
堪えつつ、朝から、
テレビ番組
永遠の五歳児チコちゃんに、
ぼぉうと、生きてんじゃねぇよ!
と、叱られて・・・
そのあと
ハイヒールリンゴさん・モモコさん達の
あさパラで、
で、時事問題を勉強し、
午後は
吉本新喜劇の人情喜劇の舞台を見て、
泣き笑いし、
お天道さまの、ご機嫌を窺いながら、
テレビ番組で、気分称揚!
脳のボケ防止にも、努めている
私です。
その他にも、
楽しい番組が目白押し・・・
今の日本、平和ならではの、
明るい楽しいテレビ番組が目白押しです。
どうか、この平和と安寧が続きますよう、
勘違い政治家、いや、政治屋さんの、
邪まな権力欲に左右されない日本・・・
そして、
つらい、悲しい事件・事故が、
起こりませぬよう、
誰もが、楽しめる番組創りに勤しまれている、
テレビ番組、はじめ、メディア関係担当の皆さまに
お礼を、申し述べたい、
テレビ見て勇気頂いてる
ぼぉうと、生きてしまう癖の私、
感謝・感激
有難うございます。m(__)m
※ このブログで、
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https://poeny.shiga-saku.net/search.php?csrf=89d57ee8b5d3d3219bc40dee125156b243d8e408&search=%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%93%E7%95%AA
秋空の筈なのに、結構蒸し暑く、
老いの私には、堪えます。
堪えつつ、朝から、
テレビ番組
永遠の五歳児チコちゃんに、
ぼぉうと、生きてんじゃねぇよ!
と、叱られて・・・
そのあと
ハイヒールリンゴさん・モモコさん達の
あさパラで、
で、時事問題を勉強し、
午後は
吉本新喜劇の人情喜劇の舞台を見て、
泣き笑いし、
お天道さまの、ご機嫌を窺いながら、
テレビ番組で、気分称揚!
脳のボケ防止にも、努めている
私です。
その他にも、
楽しい番組が目白押し・・・
今の日本、平和ならではの、
明るい楽しいテレビ番組が目白押しです。
どうか、この平和と安寧が続きますよう、
勘違い政治家、いや、政治屋さんの、
邪まな権力欲に左右されない日本・・・
そして、
つらい、悲しい事件・事故が、
起こりませぬよう、
誰もが、楽しめる番組創りに勤しまれている、
テレビ番組、はじめ、メディア関係担当の皆さまに
お礼を、申し述べたい、
テレビ見て勇気頂いてる
ぼぉうと、生きてしまう癖の私、
感謝・感激
有難うございます。m(__)m
※ このブログで、
テレビ番組、に触れた号です。
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今日は、月曜日なのに
NHKTVに、チコちゃんが岡村くんと現れて
オヤ・・・? と思いましたが
、
特別番組 朝ドラ 100作の記念史 でした。
そのHP です、
https://www.nhk.or.jp/asadora/chronology/broadcast.html
と、
第一作目 の 娘と私 は
1961(総和36)年~昭和36年の1年間
放映されたのですね
。
当時、私は、高校性。
世は、日米安保条約延長を巡って、
さらに、学生運動が過激なと言ってよいほど
過激で、世も、騒然としていました。
学校のHRや生徒総会でも、
時事問題を議論し、授業ボイコットも
する時代でもありました、
翌年、私は、高卒後に京都府巡査を拝命し
今度は、学生デモと7年間向き合いました。
あれから、57年、
仕事が忙しくて、あまり、馴染みのない作品もありますけど、
感涙・感激
で見た作品は
お花はん
と
おしん です。
他にも、印象深い、作品や主題歌もありますが、
自分の人生史に何かと関わって来たようにも思えます
。
これから、ぼつぼつ、過去の作品と
自分の人生、当時の世相
みたいな事を振り返りたい!
と思った、
今朝の 特別番組 朝ドラ 100作の記念史でした。
有難う! この番組!
と共に
これから何十年後も、
この朝ドラが続いて、
世の世相を映し、
人々の心に、
勇気と感動を与える番組。続きますよう
切望する朝ドラ感動しきりの
オールド・ヤング・マンの私です。m(__)m
NHKTVに、チコちゃんが岡村くんと現れて
オヤ・・・? と思いましたが

特別番組 朝ドラ 100作の記念史 でした。
そのHP です、
https://www.nhk.or.jp/asadora/chronology/broadcast.html
と、
第一作目 の 娘と私 は
1961(総和36)年~昭和36年の1年間
放映されたのですね

当時、私は、高校性。
世は、日米安保条約延長を巡って、
さらに、学生運動が過激なと言ってよいほど
過激で、世も、騒然としていました。
学校のHRや生徒総会でも、
時事問題を議論し、授業ボイコットも
する時代でもありました、
翌年、私は、高卒後に京都府巡査を拝命し
今度は、学生デモと7年間向き合いました。
あれから、57年、
仕事が忙しくて、あまり、馴染みのない作品もありますけど、
感涙・感激

お花はん
と
おしん です。
他にも、印象深い、作品や主題歌もありますが、
自分の人生史に何かと関わって来たようにも思えます

これから、ぼつぼつ、過去の作品と
自分の人生、当時の世相
みたいな事を振り返りたい!
と思った、
今朝の 特別番組 朝ドラ 100作の記念史でした。
有難う! この番組!
と共に
これから何十年後も、
この朝ドラが続いて、
世の世相を映し、
人々の心に、
勇気と感動を与える番組。続きますよう
切望する朝ドラ感動しきりの
オールド・ヤング・マンの私です。m(__)m
実は、友人が、私の家のポストに
いつも、入れといて下さる「通信紙」
ヒューマン人権ネットワーク八幡NEWS
に載っていた
作家で活動家の 雨宮処凛さんをご紹介します。
※ 人材バンクネット HP です。
http://mainichi.jp/articles/20150804/mog/00m/040/003000c
雨宮さんは、今年、33歳。
今の若い人たちが、抱えている、悩みや混迷を
勉強したくて、UP します。
40歳年下の若い人の置かれている状況・・・
私の子ども時代は、戦後の混乱と復興、
思春期・青年期は
高度経済成長期で、
5年先の見通しが見えて、
希望の持てた社会だったように思います。
今は、どうか・・・?!
雨宮処凛さんの思いを読んで、
今の日本社会の問題点を、学んで行きたいです。m(_ _)m
失われた20年インタビュー
作家・雨宮処凛さん・・・
格差が、同じ日本で言葉が通じないくらい広がった
2015年8月4日
作家の雨宮処凛さん=東京都千代田区で2015年7月16日、内藤絵美撮影
フリーターとして働いた苦しい経験から非正規労働の救いのない状況、貧困を訴え続けている作家の雨宮処凛さん。「同じ日本に住んでいて言葉が通じないぐらいに格差が広がってきている。生活意識も何もかも全部違って、格差の上位の人と下の人たちで、一つも共感できるところがないふうになっている。そういう社会ってちょっと怖い」と話す。【聞き手・尾村洋介/デジタル報道センター】
【徹底総括】失われた20年 変容する日本の雇用はどこへ .
<失われた20年>ジャーナリスト小林美希さんインタビュー「非正規を全体に広げたのは大きな誤りだった」 .
<失われた20年>大田弘子・元経済担当相インタビュー「政治がメッセージ作れず、遠のいた構造改革」 .
<失われた20年>藤井裕久・元財務相インタビュー「恵まれない人に目を向けるのが政治の責任」 .
<座談会>失われた20年に学生たちは何を思う? .
−−雨宮さんがフリーターになったいきさつを教えてください。
雨宮さん 美大に進学したくて1993年に東京に出てきて、美大専門の予備校に行きました。バブル崩壊は何となく知ってたけど、東京に出た時はまだジュリアナ・ブームのような感じで、すごいバブルっぽい雰囲気がありました。94年に進学を諦めたんですが、その時に「就職氷河期」といわれていて、どうしたら就職できるかわからないし、まあアルバイトを始めようと思いました。実際に始めると、時給はどんどん下がっていって、バイト先でも「すごく悪い時にフリーターになったね」って言われましたね。
−−当面の仕事のような意識だったのでしょうか。
雨宮さん 最初はそんな感じでしたけど、始めて半年ぐらいたったら、もう、これ絶対逃れられないんだなっていうのに気づきましたね。95年ぐらいの時、自分の周りの友達と、「うちらは親が死んだらホームレスだよね」「野垂れ死にだよね」ということは冗談交じりに話してたんです。アルバイトだから風邪で一回休んだだけで家賃を滞納してしまったり、ガスや電気が止まったりするので、そのたびに親に電話し、泣きついてお金を借りていましたので。もう正社員にはほぼなれないし、なり方もわからないし。綱渡りの生活をしていた。世の中では自由でいたくてやっているフリーターというイメージがすごく強かったけど、自分たちはまったく自由だと思わなかったですね。でも、上の世代からは甘えてだらしがなくて怠けてるって言われるので、私は甘えているからこういう生活なんだろう、何かが自分に足りないからこうなってるんだって思ってました。社会が悪いとは一切思わなかったです。
−−すれすれの生活ですね。
雨宮さん バイトもしょっちゅうクビになるんです。本当は違法な解雇だったりするんですけど、当時は人格否定されたように思っていました。単純な仕事をクビになると結構きついんです。本当に誰にもできる、クソつまらないような仕事でさえ必要とされないというのは、一番底辺から蹴り落とされるようなところがありました。
−−何かよりどころはあったのでしょうか?
雨宮さん 私は一時期、右翼団体に入っていました。飲食店で働いていると、日本人のフリーターに比べて韓国人のほうが時給は安いのに働き者だから取り換えたいとか、そういうことを言われるんですよ。「自分は日本の底辺にいて、外国人労働者とまったく変わらない。もし外国人労働者と自分を区別するものがあるなら、それって日本人であることしかない」みたいな、過剰に日本人であるってことにすがっていきました。学生時代にバブルだったので、ものすごく受験勉強が厳しくて、受験戦争で傷つけられても、すべて頑張れば報われるという戦後日本の一番大切にしていた「神話」みたいなものを信じてきた。けれども、自分が社会に出たころ、「バブルが崩壊したから今までのことは全部うそになりました」と言われた気がして、すごくびっくりした。大人とか学校から教わってきたことが、たかが経済によってうそになるんだ、みたいな。それで後で思うんですが、天皇制はバブルで崩れなかったので、経済の停滞とかで崩れない揺るぎない価値観が欲しいという気持ちがありました。フリーターとして東京で1人暮らしをしていると、職場がなかったり、職場があってもしょっちゅうクビになったりするので、そこに帰属意識が持てないし、職場が変わるので友達もできない。学校にいけない、企業社会にも入れない、もちろん地域社会もない、どこにも居場所がなくて。そうなると、もう一気に国家しか居場所がないような感覚がありました。教育にうそをつかれたっていう被害者意識があったので、学校で教えてくれない靖国史観的なものが、自分の中にストンと入ってきた。私が入っていた右翼団体には同じような人が入っていました。
−−その団体が、当時の非常に不安定な状況を支えてくれることはあったんでしょうか?
雨宮さん 一時的にはありました。私を唯一必要としてくれる居場所でしたが、自分たちの苦しい現実から目をそらすために、アメリカがどうとか、そんな大きな話をしていた。自分たちの生活を何とかしようとか、自分たちの労働や生活の状況を問題にするということは一切なかったですね。逆に言うと、自分たちは日本人で恵まれているんだということを再確認し合う会話がずーっと続くというような、そんな感じでした。
−−今から考えると、どういうことだったんでしょう?
雨宮さん お前は悪くないよって誰かに言ってほしかったんですね。右翼の大人は、今の世の中で若者が鬱屈して生きづらいのは、日本国憲法が押し付け憲法だから悪い、アメリカと戦後民主主義が悪いと説明するんですが、その意味がわからなくても、自分が悪いと思わなくていいというところで自分の生きづらさをごまかすことができた。それではまりました。
−−右翼をやめたのはどうしてですか。
雨宮さん 私、そのころ総理大臣の名前も知らないくらいの大ばかだったんですけど、右翼の人が時事問題から何から教えてくれました。でも、ある程度物事がわかってきて自分の頭で考えるようになったら、私は全然、右翼じゃないな、右翼の人の言っていることは自分の考えとは違うなと思うようになり、やめました。
−−雨宮さんが「プレカリアート」(不安定な労働者)という問題に取り組み始めたのはいつごろからですか?
雨宮さん 2006年ごろですね。00年に脱フリーターして文筆業になって、不安定なプレカリアートという言葉をたまたまネットで見つけて引っかかるものを感じて、メーデーの集会に行った。そこで、新自由主義と生きづらさや自殺の問題の関係とか、日本の労働政策がどれほど変わってきたかというのを初めて知ったんですね。それまで、自分の周りの人たちがずいぶん自殺していたんですが、その背景には、個人の問題じゃなくて、何か構造的な問題、社会が関わっているんじゃないかとずっと考えていたときだったので、すっと理解できた。その十数年前からの労働政策や新自由主義で格差が広がり、普通に生き、普通に働くってことが特権階級にしか許されなくなったというような状況がある。自己責任などと言われて働けない自分を責めて、「すみません」って遺書とかで謝りながら死んでいった人もいます。どんどん労働市場が過酷になって、ちょっと不器用な人たちの居場所がなくなり、こんな自分が生きてちゃいけないと思って死んでいくような、そういうことがあった。集会で話を聞いて、その人たちのせいで死んだんじゃなく、人を生きさせないようなシステムがもう作られてたんだなと思った。「原因がやっとわかった。ここに敵がいたのか」みたいな感じでした。それをなくさないと私たちの生きづらさは絶対になくならないと思うと、猛然と腹が立った。
−−敵といってもシステムですか。
雨宮さん 当時は小泉政権でした。小泉さんは敵としてはある意味完璧というか、自己責任という言葉もそうですし、既得権益である正社員層からごっそり盗んで、非正規の人が何かおこぼれがくるんじゃないかと錯覚させるようなやり方が巧みだった。小泉さん個人というよりは、小泉さんが進めている労働法制の規制緩和などの政策が自分たちを追い詰めている。本当をいえば、それ以前からの政策で、派遣法ができたときぐらいから自民党の政治が進めてきた方向が、若者の貧困を個人の問題にして企業の利益を最大化していく。そこにみんな気づいて怒りだしたんです。
−−経済の停滞が始まって、企業は非正規を採用してコストを低くしました。それはどのように見えていましたか。
雨宮さん プレカリアートの問題を知ってからは、やっぱり企業は自分たちの利益のために人件費の削減をやっていこうとしているんだと、びっくりしました。日本の企業を誇りに思っているところがあったのに、名だたる大企業が非正規を使い捨てにしたために、派遣労働を経由してホームレスになっている人たちが山ほど生まれた。当時は景気が良いと言われていたけれど、自分たちにはその恩恵はないし、すごく苦しい人が増えているし、大企業の派遣で働きながらも月収10万円ぐらいの人もいた。まったく自分たちが思っていたのとは違う労働世界が広がっていて、その人たちはもう一生はい上がれないようなシステムになっちゃっている。それが始まったのがちょうど私たちの世代くらいからなんです。06年に私は31歳でした。同世代のフリーターは30代を超えて、仕事がなくなり始めてましたね。30の壁を超えられないとか、日本には30歳を超えたフリーターの行き場がないということにも気づいた。
−−企業の言い分についてはどう思いますか。
雨宮さん 結局、グローバル競争を勝ち抜いていくためには人件費を安くして当然じゃないか。一貫してそれです。企業は営利活動を目的としているので、企業を責めてもしょうがない。そこは政治がある程度歯止めをかけないと。営利活動が行き過ぎない雇用形態だとか、あっさりホームレス化しないような生活ができる賃金を払うという法規制は、どこの国でもやっている。日本は働いた賃金だけで生きていけっていうかなりの自己責任社会であるうえに、そこを不安定化、低賃金化されると、働く人に不利にできているので、みんなが不安定になってしまう。雇用保険も失業者の7割以上が受けていない上に住宅政策もないので、失業したらホームレスになっちゃう。
−−80年代から雇用の流動化が進んできましたが、不安定になる人を支える手立てをあんまり考えてこなかったんですね。
雨宮さん そうです。求職者への支援制度とかセーフティーネット的なものがやっとできたのは派遣村以降で、それもあまり使い勝手がいいとはいえないんです。本当は86年に派遣法ができたぐらいからやっておかないといけなかった。00年代に時限爆弾が爆発するように問題化した時には、まだ何もなかった。
−−プレカリアートの人たちに日本が豊かだという感覚は?
雨宮さん まったくないんじゃないですか。90年代は、自分たちが集まって話すときは常にうっすらと「豊かだけど生きづらい」と意識していました。それが00年代に入ると「生きづらいうえに貧乏、カネがない」というのを前提に語られるようになった。だから、一億総中流的なものって、言葉としては05年ぐらいまで生きていた気がします。90年代も自分たちは貧困ライン以下の生活をしていたのに、日本は経済大国という全体の幻想の中で、本当に気づくのが遅れてしまった。当事者は、社会に出たことがないから気づかない。あの時、誰か一人でも、気づいてくれたらと思います。今でこそ、若者の貧困が注目され、非正規の問題に取り組んでくれる人は増えましたけれどね。メディアに問題として発見されたから、認識が改まったってことですよね。
−−今現在の状況はどう見ていますか。
雨宮さん どんどん悪くなっていると思いますね。この前の国民生活基礎調査で、生活が苦しいという人が62・4%と過去最多でした。だから、アベノミクスって何なの、ってことです。年収200万円以下の人が増え、平均年収も下がっています。生活保護受給層は200万人をずっと突破しています。
−−リーマン・ショックの時、緩やかに回復していた景気が急速に悪化して、「派遣切り」などが表面化しました。こうしたことがまた起きる際の備えには何が必要ですか。
雨宮さん 自衛する方法としては制度を知っておくことですかね。労働組合が関われば、寮を追い出されないようにする交渉ができるので、フリーターでも入れる組合を知っておけばいい。あとは、最低限の生活保護に関する知識とか、住宅手当や求職者の支援制度もあります。使えるものは結構あるんですが、それがまったく周知されてない。日本ではそういう生きるか死ぬかにかかわる情報が全然知られてない。
−−どこを変えればいいのでしょうか?
雨宮さん 最低賃金を上げるとか、非正規にいろんな保障をつけるとか、過労死しない労働時間規制とか、そういう個別の小さな政策でできることってちゃんとあります。でも、日本社会がこの格差に対してまひしている感じがあるように思えるんです。最初はみんなすごいショックを受けて聞いてくれたんですが、今は誰も驚かないし、そういう社会だからしょうがないよね、それがグローバリズムに対応する先進国の宿命でしょう、とでもいうようなものを感じるんです。同じ日本に住んでいて言葉が通じないぐらいに格差が広がっていて、生活意識も何もかも全部違って、格差の上位の人と下の人たちで、一つも共感できるところがないふうになっている。そういう社会ってちょっと怖い。そういう相手を助けようとは誰も思わないだろうし、話を聞こうともしない。言葉も通じない怠け者は自己責任だと思ったら、社会保障の分配の対象にするのにも反対すると思うんですね。そういうふうになってきている感じがする。
−−これから先の展望はどうでしょうか?
雨宮さん 自分たちの世代は自分を「絶滅危惧種」って呼ぶようになってきています。結婚して子供を残せない、種を残せないから、そのまま絶滅していくだけの運命という意味です。今住んでいる6畳一間のアパートとかにみんな居続ける。フリーターとか非正規で働いている人たちはその家賃も払えなくなってくると思う。川崎市で起きた簡易宿泊所の火事では、あれが自分たちの未来の姿じゃないかというか、ああいうところで自分たちの世代がどんどん孤独死したり、火事で死んだり、そういう場所に行きつくしかないんじゃないかとすごく感じました。
−−5年先、10年先にやっていきたいことは何ですか。
雨宮さん 自分の世代のこの問題が、何か運動とかすれば解決とか決着というか、どこかに着地するのかと思っていたんですね。雇用があまりにも流動化したことが原因だから、セーフティーネットが必要だ、彼らが悪いわけじゃないんだという認識が社会的にも広まって、どこかに決着の地点があると思ったけれど、10年たってもまったくない。だから、自分の世代の問題として、どこかで落とし前をつけるまではこの問題からは離れられない。10年前は若者の貧困だったけど、今はもう若者じゃない。中年になっていて、それがどんどん初老になり、高齢者になっていく。この世代がどのへんで救われるのかが、ものすごく重要だと思っています。
■あまみや・かりん 1975年、北海道生まれ。高校卒業後、パンクロック歌手、右翼活動家などを経て作家に。2000年、「生き地獄天国」でデビュー。若者の生きづらさをテーマにした著作を発表している。著書に「プレカリアート」「雨宮処凛の闘争ダイアリー」など。「生きさせろ!難民化する若者たち」で日本ジャーナリスト会議賞受賞。「反貧困ネットワーク」世話人。最新刊に「14歳からの戦争のリアル」。
いつも、入れといて下さる「通信紙」
ヒューマン人権ネットワーク八幡NEWS
に載っていた
作家で活動家の 雨宮処凛さんをご紹介します。
※ 人材バンクネット HP です。
http://mainichi.jp/articles/20150804/mog/00m/040/003000c
雨宮さんは、今年、33歳。
今の若い人たちが、抱えている、悩みや混迷を
勉強したくて、UP します。
40歳年下の若い人の置かれている状況・・・
私の子ども時代は、戦後の混乱と復興、
思春期・青年期は
高度経済成長期で、
5年先の見通しが見えて、
希望の持てた社会だったように思います。
今は、どうか・・・?!
雨宮処凛さんの思いを読んで、
今の日本社会の問題点を、学んで行きたいです。m(_ _)m
失われた20年インタビュー
作家・雨宮処凛さん・・・
格差が、同じ日本で言葉が通じないくらい広がった
2015年8月4日
作家の雨宮処凛さん=東京都千代田区で2015年7月16日、内藤絵美撮影
フリーターとして働いた苦しい経験から非正規労働の救いのない状況、貧困を訴え続けている作家の雨宮処凛さん。「同じ日本に住んでいて言葉が通じないぐらいに格差が広がってきている。生活意識も何もかも全部違って、格差の上位の人と下の人たちで、一つも共感できるところがないふうになっている。そういう社会ってちょっと怖い」と話す。【聞き手・尾村洋介/デジタル報道センター】
【徹底総括】失われた20年 変容する日本の雇用はどこへ .
<失われた20年>ジャーナリスト小林美希さんインタビュー「非正規を全体に広げたのは大きな誤りだった」 .
<失われた20年>大田弘子・元経済担当相インタビュー「政治がメッセージ作れず、遠のいた構造改革」 .
<失われた20年>藤井裕久・元財務相インタビュー「恵まれない人に目を向けるのが政治の責任」 .
<座談会>失われた20年に学生たちは何を思う? .
−−雨宮さんがフリーターになったいきさつを教えてください。
雨宮さん 美大に進学したくて1993年に東京に出てきて、美大専門の予備校に行きました。バブル崩壊は何となく知ってたけど、東京に出た時はまだジュリアナ・ブームのような感じで、すごいバブルっぽい雰囲気がありました。94年に進学を諦めたんですが、その時に「就職氷河期」といわれていて、どうしたら就職できるかわからないし、まあアルバイトを始めようと思いました。実際に始めると、時給はどんどん下がっていって、バイト先でも「すごく悪い時にフリーターになったね」って言われましたね。
−−当面の仕事のような意識だったのでしょうか。
雨宮さん 最初はそんな感じでしたけど、始めて半年ぐらいたったら、もう、これ絶対逃れられないんだなっていうのに気づきましたね。95年ぐらいの時、自分の周りの友達と、「うちらは親が死んだらホームレスだよね」「野垂れ死にだよね」ということは冗談交じりに話してたんです。アルバイトだから風邪で一回休んだだけで家賃を滞納してしまったり、ガスや電気が止まったりするので、そのたびに親に電話し、泣きついてお金を借りていましたので。もう正社員にはほぼなれないし、なり方もわからないし。綱渡りの生活をしていた。世の中では自由でいたくてやっているフリーターというイメージがすごく強かったけど、自分たちはまったく自由だと思わなかったですね。でも、上の世代からは甘えてだらしがなくて怠けてるって言われるので、私は甘えているからこういう生活なんだろう、何かが自分に足りないからこうなってるんだって思ってました。社会が悪いとは一切思わなかったです。
−−すれすれの生活ですね。
雨宮さん バイトもしょっちゅうクビになるんです。本当は違法な解雇だったりするんですけど、当時は人格否定されたように思っていました。単純な仕事をクビになると結構きついんです。本当に誰にもできる、クソつまらないような仕事でさえ必要とされないというのは、一番底辺から蹴り落とされるようなところがありました。
−−何かよりどころはあったのでしょうか?
雨宮さん 私は一時期、右翼団体に入っていました。飲食店で働いていると、日本人のフリーターに比べて韓国人のほうが時給は安いのに働き者だから取り換えたいとか、そういうことを言われるんですよ。「自分は日本の底辺にいて、外国人労働者とまったく変わらない。もし外国人労働者と自分を区別するものがあるなら、それって日本人であることしかない」みたいな、過剰に日本人であるってことにすがっていきました。学生時代にバブルだったので、ものすごく受験勉強が厳しくて、受験戦争で傷つけられても、すべて頑張れば報われるという戦後日本の一番大切にしていた「神話」みたいなものを信じてきた。けれども、自分が社会に出たころ、「バブルが崩壊したから今までのことは全部うそになりました」と言われた気がして、すごくびっくりした。大人とか学校から教わってきたことが、たかが経済によってうそになるんだ、みたいな。それで後で思うんですが、天皇制はバブルで崩れなかったので、経済の停滞とかで崩れない揺るぎない価値観が欲しいという気持ちがありました。フリーターとして東京で1人暮らしをしていると、職場がなかったり、職場があってもしょっちゅうクビになったりするので、そこに帰属意識が持てないし、職場が変わるので友達もできない。学校にいけない、企業社会にも入れない、もちろん地域社会もない、どこにも居場所がなくて。そうなると、もう一気に国家しか居場所がないような感覚がありました。教育にうそをつかれたっていう被害者意識があったので、学校で教えてくれない靖国史観的なものが、自分の中にストンと入ってきた。私が入っていた右翼団体には同じような人が入っていました。
−−その団体が、当時の非常に不安定な状況を支えてくれることはあったんでしょうか?
雨宮さん 一時的にはありました。私を唯一必要としてくれる居場所でしたが、自分たちの苦しい現実から目をそらすために、アメリカがどうとか、そんな大きな話をしていた。自分たちの生活を何とかしようとか、自分たちの労働や生活の状況を問題にするということは一切なかったですね。逆に言うと、自分たちは日本人で恵まれているんだということを再確認し合う会話がずーっと続くというような、そんな感じでした。
−−今から考えると、どういうことだったんでしょう?
雨宮さん お前は悪くないよって誰かに言ってほしかったんですね。右翼の大人は、今の世の中で若者が鬱屈して生きづらいのは、日本国憲法が押し付け憲法だから悪い、アメリカと戦後民主主義が悪いと説明するんですが、その意味がわからなくても、自分が悪いと思わなくていいというところで自分の生きづらさをごまかすことができた。それではまりました。
−−右翼をやめたのはどうしてですか。
雨宮さん 私、そのころ総理大臣の名前も知らないくらいの大ばかだったんですけど、右翼の人が時事問題から何から教えてくれました。でも、ある程度物事がわかってきて自分の頭で考えるようになったら、私は全然、右翼じゃないな、右翼の人の言っていることは自分の考えとは違うなと思うようになり、やめました。
−−雨宮さんが「プレカリアート」(不安定な労働者)という問題に取り組み始めたのはいつごろからですか?
雨宮さん 2006年ごろですね。00年に脱フリーターして文筆業になって、不安定なプレカリアートという言葉をたまたまネットで見つけて引っかかるものを感じて、メーデーの集会に行った。そこで、新自由主義と生きづらさや自殺の問題の関係とか、日本の労働政策がどれほど変わってきたかというのを初めて知ったんですね。それまで、自分の周りの人たちがずいぶん自殺していたんですが、その背景には、個人の問題じゃなくて、何か構造的な問題、社会が関わっているんじゃないかとずっと考えていたときだったので、すっと理解できた。その十数年前からの労働政策や新自由主義で格差が広がり、普通に生き、普通に働くってことが特権階級にしか許されなくなったというような状況がある。自己責任などと言われて働けない自分を責めて、「すみません」って遺書とかで謝りながら死んでいった人もいます。どんどん労働市場が過酷になって、ちょっと不器用な人たちの居場所がなくなり、こんな自分が生きてちゃいけないと思って死んでいくような、そういうことがあった。集会で話を聞いて、その人たちのせいで死んだんじゃなく、人を生きさせないようなシステムがもう作られてたんだなと思った。「原因がやっとわかった。ここに敵がいたのか」みたいな感じでした。それをなくさないと私たちの生きづらさは絶対になくならないと思うと、猛然と腹が立った。
−−敵といってもシステムですか。
雨宮さん 当時は小泉政権でした。小泉さんは敵としてはある意味完璧というか、自己責任という言葉もそうですし、既得権益である正社員層からごっそり盗んで、非正規の人が何かおこぼれがくるんじゃないかと錯覚させるようなやり方が巧みだった。小泉さん個人というよりは、小泉さんが進めている労働法制の規制緩和などの政策が自分たちを追い詰めている。本当をいえば、それ以前からの政策で、派遣法ができたときぐらいから自民党の政治が進めてきた方向が、若者の貧困を個人の問題にして企業の利益を最大化していく。そこにみんな気づいて怒りだしたんです。
−−経済の停滞が始まって、企業は非正規を採用してコストを低くしました。それはどのように見えていましたか。
雨宮さん プレカリアートの問題を知ってからは、やっぱり企業は自分たちの利益のために人件費の削減をやっていこうとしているんだと、びっくりしました。日本の企業を誇りに思っているところがあったのに、名だたる大企業が非正規を使い捨てにしたために、派遣労働を経由してホームレスになっている人たちが山ほど生まれた。当時は景気が良いと言われていたけれど、自分たちにはその恩恵はないし、すごく苦しい人が増えているし、大企業の派遣で働きながらも月収10万円ぐらいの人もいた。まったく自分たちが思っていたのとは違う労働世界が広がっていて、その人たちはもう一生はい上がれないようなシステムになっちゃっている。それが始まったのがちょうど私たちの世代くらいからなんです。06年に私は31歳でした。同世代のフリーターは30代を超えて、仕事がなくなり始めてましたね。30の壁を超えられないとか、日本には30歳を超えたフリーターの行き場がないということにも気づいた。
−−企業の言い分についてはどう思いますか。
雨宮さん 結局、グローバル競争を勝ち抜いていくためには人件費を安くして当然じゃないか。一貫してそれです。企業は営利活動を目的としているので、企業を責めてもしょうがない。そこは政治がある程度歯止めをかけないと。営利活動が行き過ぎない雇用形態だとか、あっさりホームレス化しないような生活ができる賃金を払うという法規制は、どこの国でもやっている。日本は働いた賃金だけで生きていけっていうかなりの自己責任社会であるうえに、そこを不安定化、低賃金化されると、働く人に不利にできているので、みんなが不安定になってしまう。雇用保険も失業者の7割以上が受けていない上に住宅政策もないので、失業したらホームレスになっちゃう。
−−80年代から雇用の流動化が進んできましたが、不安定になる人を支える手立てをあんまり考えてこなかったんですね。
雨宮さん そうです。求職者への支援制度とかセーフティーネット的なものがやっとできたのは派遣村以降で、それもあまり使い勝手がいいとはいえないんです。本当は86年に派遣法ができたぐらいからやっておかないといけなかった。00年代に時限爆弾が爆発するように問題化した時には、まだ何もなかった。
−−プレカリアートの人たちに日本が豊かだという感覚は?
雨宮さん まったくないんじゃないですか。90年代は、自分たちが集まって話すときは常にうっすらと「豊かだけど生きづらい」と意識していました。それが00年代に入ると「生きづらいうえに貧乏、カネがない」というのを前提に語られるようになった。だから、一億総中流的なものって、言葉としては05年ぐらいまで生きていた気がします。90年代も自分たちは貧困ライン以下の生活をしていたのに、日本は経済大国という全体の幻想の中で、本当に気づくのが遅れてしまった。当事者は、社会に出たことがないから気づかない。あの時、誰か一人でも、気づいてくれたらと思います。今でこそ、若者の貧困が注目され、非正規の問題に取り組んでくれる人は増えましたけれどね。メディアに問題として発見されたから、認識が改まったってことですよね。
−−今現在の状況はどう見ていますか。
雨宮さん どんどん悪くなっていると思いますね。この前の国民生活基礎調査で、生活が苦しいという人が62・4%と過去最多でした。だから、アベノミクスって何なの、ってことです。年収200万円以下の人が増え、平均年収も下がっています。生活保護受給層は200万人をずっと突破しています。
−−リーマン・ショックの時、緩やかに回復していた景気が急速に悪化して、「派遣切り」などが表面化しました。こうしたことがまた起きる際の備えには何が必要ですか。
雨宮さん 自衛する方法としては制度を知っておくことですかね。労働組合が関われば、寮を追い出されないようにする交渉ができるので、フリーターでも入れる組合を知っておけばいい。あとは、最低限の生活保護に関する知識とか、住宅手当や求職者の支援制度もあります。使えるものは結構あるんですが、それがまったく周知されてない。日本ではそういう生きるか死ぬかにかかわる情報が全然知られてない。
−−どこを変えればいいのでしょうか?
雨宮さん 最低賃金を上げるとか、非正規にいろんな保障をつけるとか、過労死しない労働時間規制とか、そういう個別の小さな政策でできることってちゃんとあります。でも、日本社会がこの格差に対してまひしている感じがあるように思えるんです。最初はみんなすごいショックを受けて聞いてくれたんですが、今は誰も驚かないし、そういう社会だからしょうがないよね、それがグローバリズムに対応する先進国の宿命でしょう、とでもいうようなものを感じるんです。同じ日本に住んでいて言葉が通じないぐらいに格差が広がっていて、生活意識も何もかも全部違って、格差の上位の人と下の人たちで、一つも共感できるところがないふうになっている。そういう社会ってちょっと怖い。そういう相手を助けようとは誰も思わないだろうし、話を聞こうともしない。言葉も通じない怠け者は自己責任だと思ったら、社会保障の分配の対象にするのにも反対すると思うんですね。そういうふうになってきている感じがする。
−−これから先の展望はどうでしょうか?
雨宮さん 自分たちの世代は自分を「絶滅危惧種」って呼ぶようになってきています。結婚して子供を残せない、種を残せないから、そのまま絶滅していくだけの運命という意味です。今住んでいる6畳一間のアパートとかにみんな居続ける。フリーターとか非正規で働いている人たちはその家賃も払えなくなってくると思う。川崎市で起きた簡易宿泊所の火事では、あれが自分たちの未来の姿じゃないかというか、ああいうところで自分たちの世代がどんどん孤独死したり、火事で死んだり、そういう場所に行きつくしかないんじゃないかとすごく感じました。
−−5年先、10年先にやっていきたいことは何ですか。
雨宮さん 自分の世代のこの問題が、何か運動とかすれば解決とか決着というか、どこかに着地するのかと思っていたんですね。雇用があまりにも流動化したことが原因だから、セーフティーネットが必要だ、彼らが悪いわけじゃないんだという認識が社会的にも広まって、どこかに決着の地点があると思ったけれど、10年たってもまったくない。だから、自分の世代の問題として、どこかで落とし前をつけるまではこの問題からは離れられない。10年前は若者の貧困だったけど、今はもう若者じゃない。中年になっていて、それがどんどん初老になり、高齢者になっていく。この世代がどのへんで救われるのかが、ものすごく重要だと思っています。
■あまみや・かりん 1975年、北海道生まれ。高校卒業後、パンクロック歌手、右翼活動家などを経て作家に。2000年、「生き地獄天国」でデビュー。若者の生きづらさをテーマにした著作を発表している。著書に「プレカリアート」「雨宮処凛の闘争ダイアリー」など。「生きさせろ!難民化する若者たち」で日本ジャーナリスト会議賞受賞。「反貧困ネットワーク」世話人。最新刊に「14歳からの戦争のリアル」。