話しが前後するが、1952(昭和27)年4月28日だった、と思う。小学校3年生のとき、朝礼で校長が、いつもより語気を荒げて「日本は独立・・・」どうのこうのと言っていた。私は、長い話しに立ち疲れてウンザリしていた。そのうち、生徒のひとりが後の方でよろけたようで、その時、校長はダダダッと壇上から降りてきて、その子の傍にいき、「そんなことでどうするのか!」と、大声を出していたのを、滅多にないことだったので、覚えている。
  金曜日の夜は、「君の名は」のラジオ・ドラマが流れた。春樹・真知子・真知子巻き・菊田一夫の名と「忘却とは忘れ去ることなり」という冒頭のナレーションを、今も覚えている。今から思うと、当時の娯楽は少なく、流行のサイクルが長かったので、強く印象に残ったのではないだろうか。1953(昭和28)年ごろだったと思うが春日八郎の「お富さん」が大ヒットし、夏の盆踊りでその歌にのって踊った。
  小学生時代、家の米びつが空で食べるものがなく朝食を食べられずに学校へ行くことも多く、昼の給食が楽しみだったから、学校を休んだらもったいなかった。だから、当時は「不登校」ということはほとんど聞かなかった。夜、寝小便をたれて、親に怒られるものだから、親に隠して小便臭い匂いで学校に行った。教室には、そういう子どもが数人にいて、「臭いから」という理由でイジメが発生するなんてことはなかった。家の内風呂もなく、お金がもったいなから風呂代が1回20~30円ほどの銭湯に行けず、数日入浴もせず、不潔で、髪の毛からフケなんてことは当たり前だった。けっこうクラスの団結は強くて、自分のクラスの子をかばって、よくクラス対抗で、言い合いや喧嘩をした。因みに、昭和40年代ころから、清潔であることが過度にもてはやされ、「フケいやいや」という石鹸会社のコマーシャルがテレビから流れるに及んで、子どもたちの清潔意識が喚起され、自分の清潔感に合わない人を排除するイジメ的なことが進行していったのではないかと思っている。過度の清潔感の喧伝の進行のなかで、「O157」に弱い日本の子どもたちの現状を見るとき、また、不潔を極度に嫌う子どものいることを考えるとき、地球の微生物との共生という視点が、もっと、子育ての中に入ってきてもよいのではないだろうか? 昔からの諺に「水清ければ魚住まず」というのがあるように・・・。(昭和20年代の様子、さらに次回につづく)
  

Posted by 夢想花 at 18:11Comments(0)戦後日本世相の変容
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