朝NHKテレビで「石原裕次郎と三枝夫人の世界」が放映されていた。これに触発されて、映画、特に彼が鮮烈にデビューして華々しく活躍した昭和30年代の映画について、ぜひ述べたくなった。
昭和30年代、私が小学校を卒業して、中学校、高校と多感な時を過ごしたとき、そこには、さまざまな映画があった。
昭和30年代に入って、石原裕次郎が登場し、彼の主演映画「嵐を呼ぶ男」に私たち中学生は熱狂した。立ち見の客が一杯の映画館で、裕ちゃんがドラムを叩きながら「おいらはドラマー、やくざなドラマー」を歌うのを見て、その格好良さにしびれて、彼の発する「イカす」という言葉を真似した。小学生が「錆びたナイフ」を歌っていた。
裕ちゃんに続くヒーローが登場し、小林旭、赤木圭一郎がそれに続いた。赤木圭一郎は撮影中の自動車事故で死亡し、中学生の私はショックを受けた。俳優の死亡事故と言えば、海の向こうでは「エデンの東」のジエイムス・ディーンも自動車事故で亡くなった。
昭和30年代、時代劇を中心に、市川雷蔵が活躍した。彼の「眠狂四郎」「大菩薩峠」は印象深く、彼の演ずる「忠臣蔵」の浅野内匠頭はその気品で絶品だった。それでいて、金閣寺放火事件を描いた「炎上」でニヒルな僧を演じた。軽妙な演技も、冷徹な演技もできて、しかも、彼が梨園の名門に生まれなかった故に歌舞伎界で冷遇され、映画界に転身して成功していたのもあって、中学生から高校生になっていた私は彼を心情的に応援した。私も社会的経済的に恵まれていないtと思っていたから、自分の境遇を雷蔵の生き方に投影させて、大の雷蔵ファンになった。さらに彼は、若くして、昭和37年私が高校を卒業する頃に、ガンで死んだことも彼の悲劇性を私の心の中で膨らませていった。
因みに、私は、今野球界ではロッテ球団を応援している。最近でこそロッテ球団ファンも増えているようだが、64歳の今まで、身近にロッテ・ファンの人に会ったことがない。にも関わらず何故ロッテ・ファンであるのか? それは、雷蔵に大きく関わっている。それは、彼が俳優として活躍していたとき、大映という映画会社に所属していたためだ。当時、映画会社「大映」は、プロ野球球団の「大映」のオーナーであった。やがて大映球団は、オ-ナーが毎日新聞社である「毎日球団」と合併して「大毎オリオンズ」になり、さらに後年「「東京オリオンズ」そして「ロッテ・オリオンズ」とオーナーが変わるとともに球団名も変えて、今日に至っているから、私は大映オリオンズの流れをひくロッテ・オリオンズファンなのである。まことに、ファン心理というものはおかしなもので、私の人生や生活に一切関係ないのに、その勝敗に一喜一憂し、優勝でもしようものなら狂喜乱舞する。だから、私は、ロッテ球団を通して、市川雷蔵を、今も思い出す。
昭和30年代は、映画全盛期で、後年にも語り継がれるスターが輩出した時期で、「座頭市」の勝新太郎は、雷蔵のライバルのような形で出てきたように覚えている。アメリカでは、女優のマリリン・モンローが活躍し、1963(昭和38)年に薬物中毒による死亡事故が報じられて。ショッックを受けた。
音楽と並んで、映画も大好きで、当時はテレビの影響も少なく、映画「忠臣蔵」は、観客が超満員で立錐の余地のない映画館で2時間ほど、私は立ちづくめて見て飽きなかった。当時の私の夢の一つが、俳優ではルックス的に無理だろうと思っていたから、「映画監督」であったほど、映画大好き少年だった。
昭和30年代、私が小学校を卒業して、中学校、高校と多感な時を過ごしたとき、そこには、さまざまな映画があった。
昭和30年代に入って、石原裕次郎が登場し、彼の主演映画「嵐を呼ぶ男」に私たち中学生は熱狂した。立ち見の客が一杯の映画館で、裕ちゃんがドラムを叩きながら「おいらはドラマー、やくざなドラマー」を歌うのを見て、その格好良さにしびれて、彼の発する「イカす」という言葉を真似した。小学生が「錆びたナイフ」を歌っていた。
裕ちゃんに続くヒーローが登場し、小林旭、赤木圭一郎がそれに続いた。赤木圭一郎は撮影中の自動車事故で死亡し、中学生の私はショックを受けた。俳優の死亡事故と言えば、海の向こうでは「エデンの東」のジエイムス・ディーンも自動車事故で亡くなった。
昭和30年代、時代劇を中心に、市川雷蔵が活躍した。彼の「眠狂四郎」「大菩薩峠」は印象深く、彼の演ずる「忠臣蔵」の浅野内匠頭はその気品で絶品だった。それでいて、金閣寺放火事件を描いた「炎上」でニヒルな僧を演じた。軽妙な演技も、冷徹な演技もできて、しかも、彼が梨園の名門に生まれなかった故に歌舞伎界で冷遇され、映画界に転身して成功していたのもあって、中学生から高校生になっていた私は彼を心情的に応援した。私も社会的経済的に恵まれていないtと思っていたから、自分の境遇を雷蔵の生き方に投影させて、大の雷蔵ファンになった。さらに彼は、若くして、昭和37年私が高校を卒業する頃に、ガンで死んだことも彼の悲劇性を私の心の中で膨らませていった。
因みに、私は、今野球界ではロッテ球団を応援している。最近でこそロッテ球団ファンも増えているようだが、64歳の今まで、身近にロッテ・ファンの人に会ったことがない。にも関わらず何故ロッテ・ファンであるのか? それは、雷蔵に大きく関わっている。それは、彼が俳優として活躍していたとき、大映という映画会社に所属していたためだ。当時、映画会社「大映」は、プロ野球球団の「大映」のオーナーであった。やがて大映球団は、オ-ナーが毎日新聞社である「毎日球団」と合併して「大毎オリオンズ」になり、さらに後年「「東京オリオンズ」そして「ロッテ・オリオンズ」とオーナーが変わるとともに球団名も変えて、今日に至っているから、私は大映オリオンズの流れをひくロッテ・オリオンズファンなのである。まことに、ファン心理というものはおかしなもので、私の人生や生活に一切関係ないのに、その勝敗に一喜一憂し、優勝でもしようものなら狂喜乱舞する。だから、私は、ロッテ球団を通して、市川雷蔵を、今も思い出す。
昭和30年代は、映画全盛期で、後年にも語り継がれるスターが輩出した時期で、「座頭市」の勝新太郎は、雷蔵のライバルのような形で出てきたように覚えている。アメリカでは、女優のマリリン・モンローが活躍し、1963(昭和38)年に薬物中毒による死亡事故が報じられて。ショッックを受けた。
音楽と並んで、映画も大好きで、当時はテレビの影響も少なく、映画「忠臣蔵」は、観客が超満員で立錐の余地のない映画館で2時間ほど、私は立ちづくめて見て飽きなかった。当時の私の夢の一つが、俳優ではルックス的に無理だろうと思っていたから、「映画監督」であったほど、映画大好き少年だった。