このブログの5月18日号では、公務員に厳しいことを言いましたが、一方では・・・。。。。。
エラそうに言うな、とお叱りを受けそうですが、少しでも社会の前進につながれば、という思いで、さらに生意気を申し上げます。本人は、極めてマジメに書いておりますので、単なる「世迷いごと」より、もう少し上のランクにお位置づけくださいますよう・・・
徹底、話し合いのススメ
5月18日号では、公務員に厳しいことを言ったが、一方では公務員も、一生活人であり、一市民であり、一労働者であり一主権者であり、その組織も私企業と同じ、生身の人間の集合体である、という側面を持っている。その意味では、民間企業とか、そこで働く人と変わらない。ただ、大雑把に言えば、民間企業は儲かる・損するというバロメータがあって、世間の経済景気動向に大きく左右され、大もうけ・倒産という浮き沈みがあり、組織も働く人々も、世間の風・影響をモロに受けるという面があるのに対し、官庁は、「親方日の丸」という言葉で揶揄されるような安定感・温室育ちの観がある。最近は、自治体の財政危機でそれも危ういものになってはきているが、それでも民間企業の人から見れば、ダルいものに感じられるようだ。その分、公務員組織には、厳しい眼差しが注がれることになって、私も、現役当時、住民全体からの注目を意識する場面もあって、その不自由さに愚痴をこぼしたこともあった。
今、働いて生計を立て、家庭生活・社会生活を営んでいる「生活人」とその集合体である組織について、官・民の立場の違いによって、やや科学的視点を欠いた感情的な見方が言いやすい・大向こう(世間)に受けやすい風潮が、かなりあるのではないだろうか?
巧妙な政治家は、その辺を煽り立て、ひたすら攻めて非難して、一方は、ひたすら謝って、そして結果的に萎縮してしまっている“図式”があるように、見えて仕方がない。なぜ、組織として、「反論」なり「弁明」をブッチャケ堂々と展開しないのか? それが「説明責任」というものでは、ないだろうか? 例えば、悲しいことだが、虐待で子どもが同居の保護者たるべき大人によって虐待されている可能性や証拠などを、折角、医者や学校や近所の者が児童相談所に通報したのに、児童相談所が適切な手を打ったのか打たなかったのか分からないが、結果的に、子どもが死に追いやられたとき、テレビ画面に出てくる児相の所長は、ひたすら謝っているシーが多い。児相の権限、人手、実情等、国民にもっとその時に訴えていけば、国民の虐待防止への理解も進むのではないか? もちろん別の場では、例えば、広報活動や議会等でその辺もされていると思うけれど、謝るシーンばかりでは、児相に不信感を持ってしまう。例え、記者から詰問されようと、言うべきことは言い、議論すべきは議論する姿勢が、次なる虐待防止の施策の質の向上に繋がり、それが再発防止につながってくるのではないだろうか?
学校と親の関係も、言うべきは言い、聞くべきは聞き、共通の理解に到達することによって、結果的には、子どもの権利条約に言うところの、子どもにとっての「最善の利益」の実現につながっていくのではないか?
役所と住民の関係も、お互いに言うべきは言い、聞くべきは聞くことによって、共に成長できるのでは、ないでしょうか?
(長くなりますので、明日につづけます)
エラそうに言うな、とお叱りを受けそうですが、少しでも社会の前進につながれば、という思いで、さらに生意気を申し上げます。本人は、極めてマジメに書いておりますので、単なる「世迷いごと」より、もう少し上のランクにお位置づけくださいますよう・・・
徹底、話し合いのススメ
5月18日号では、公務員に厳しいことを言ったが、一方では公務員も、一生活人であり、一市民であり、一労働者であり一主権者であり、その組織も私企業と同じ、生身の人間の集合体である、という側面を持っている。その意味では、民間企業とか、そこで働く人と変わらない。ただ、大雑把に言えば、民間企業は儲かる・損するというバロメータがあって、世間の経済景気動向に大きく左右され、大もうけ・倒産という浮き沈みがあり、組織も働く人々も、世間の風・影響をモロに受けるという面があるのに対し、官庁は、「親方日の丸」という言葉で揶揄されるような安定感・温室育ちの観がある。最近は、自治体の財政危機でそれも危ういものになってはきているが、それでも民間企業の人から見れば、ダルいものに感じられるようだ。その分、公務員組織には、厳しい眼差しが注がれることになって、私も、現役当時、住民全体からの注目を意識する場面もあって、その不自由さに愚痴をこぼしたこともあった。
今、働いて生計を立て、家庭生活・社会生活を営んでいる「生活人」とその集合体である組織について、官・民の立場の違いによって、やや科学的視点を欠いた感情的な見方が言いやすい・大向こう(世間)に受けやすい風潮が、かなりあるのではないだろうか?
巧妙な政治家は、その辺を煽り立て、ひたすら攻めて非難して、一方は、ひたすら謝って、そして結果的に萎縮してしまっている“図式”があるように、見えて仕方がない。なぜ、組織として、「反論」なり「弁明」をブッチャケ堂々と展開しないのか? それが「説明責任」というものでは、ないだろうか? 例えば、悲しいことだが、虐待で子どもが同居の保護者たるべき大人によって虐待されている可能性や証拠などを、折角、医者や学校や近所の者が児童相談所に通報したのに、児童相談所が適切な手を打ったのか打たなかったのか分からないが、結果的に、子どもが死に追いやられたとき、テレビ画面に出てくる児相の所長は、ひたすら謝っているシーが多い。児相の権限、人手、実情等、国民にもっとその時に訴えていけば、国民の虐待防止への理解も進むのではないか? もちろん別の場では、例えば、広報活動や議会等でその辺もされていると思うけれど、謝るシーンばかりでは、児相に不信感を持ってしまう。例え、記者から詰問されようと、言うべきことは言い、議論すべきは議論する姿勢が、次なる虐待防止の施策の質の向上に繋がり、それが再発防止につながってくるのではないだろうか?
学校と親の関係も、言うべきは言い、聞くべきは聞き、共通の理解に到達することによって、結果的には、子どもの権利条約に言うところの、子どもにとっての「最善の利益」の実現につながっていくのではないか?
役所と住民の関係も、お互いに言うべきは言い、聞くべきは聞くことによって、共に成長できるのでは、ないでしょうか?
(長くなりますので、明日につづけます)